17歳
 朝起きたら布団が濡れていた。オネショだ。
毛布の下には、アンモニアの香りが薄く漂っている。足もお尻も冷たくて、僕はひどく不快だった。
これが幼稚園児なら、半べそかきながらママのところへ行けばいい。ママはきっと怒らないし、淡々と後始末をしてくれるはずだ。
ただしこれが17歳の男子となれば、話はまったく違ってくる。しかも今は、隣で彼氏が眠っているのだった。
こんな状況に陥った僕は、いったいどうすればいいんだろう。
窓はブラインドで覆われていて、部屋の中は暗かった。でもきっと、外は既に明るくなっているはずだ。
みっちゃんは、僕に背を向けて寝息を立てている。それでも間もなく、目を覚ます時が訪れる。
オネショしたのがバレた時、彼はどんな反応を示すだろう。
呆れ顔でため息をつく? それとも問答無用で怒り出す?
僕は週末になると、いつも彼のアパートへ泊まりに来ていた。だけどこんな事は初めてだから、どうなるのか本当に想像がつかなかった。
ただどう考えても、ネガティブな展開しか思い浮かばなかった。少なくとも、オネショをして褒められる事だけはないはずだ。
なにしろ僕は、1枚しかない布団を台無しにしてしまった。みっちゃんはお金に余裕のない大学生だ。そんな事をされたら、普通は怒るに違いない。最悪の場合は、振られてしまう可能性だって十分にある。
もしもそんな事になったら、とても耐えられそうにない。下手をすると、その瞬間にショック死してしまいそうだ。

 僕は命の危険を感じて、行動を起こす事にした。
畳の上には、寝る前に脱ぎ捨てた洋服が散らばっている。裸の僕はそっと起き上がり、それを1枚ずつ拾い集め、暗がりの中で洋服を身に着けた。
シャツもズボンもしわくちゃだったけれど、もちろんアイロンをかけている暇なんかない。
みっちゃんが起きる前に、ここを出て行かなくちゃ。
僕の頭にあったのは、その思いだけだった。

*   *   *

 10月の朝は寒かった。天気は悪くないけれど、外の空気はひんやりしている。
日曜の朝にせかせか歩く人は誰もいなくて、都心の住宅街はのんびりした様子だった。
僕はその雰囲気をぶち壊すかのように、風を切ってまっすぐな道を駆け抜けた。
途中ですれ違う人に挨拶をされても、笑顔を返す余裕はまったくなかった。とにかく今は、一刻も早くみっちゃんのアパートから遠ざかりたいと思っていた。
右へ曲がって公園を横切り、しばらく行くとパン屋の前を通りかかった。
するとその時、お腹がグーッと鳴った。こんな時でも空腹を感じるなんて、人間というのはおかしなものだと思っていた。

 気付くと僕は、河原へ来ていた。1人で何か考えたい時は、自然とここへ足が向くのだった。
ゴツゴツした石を踏みつけて歩くと、足の裏が刺激されて少しだけ痛かった。
雑草が秋の風に揺れている。走り疲れてしゃがみ込むと、小川のせせらぎが聞こえてきた。
衝動的にアパートを飛び出したけれど、その先の事は何も考えていなかった。
みっちゃんと別れたくない。
確かな希望はそれだけだ。でも果たして自分の望みが叶うのか、今はまったく分からなかった。
雑草が風に揺れるように、僕の心も揺れていた。
この時既に、早まった行動をとった事を後悔し始めていたんだ。
これからも彼と付き合いたいのなら、オネショして迷惑をかけた事を、いずれは謝らなければならないだろう。
それならすぐにそうした方が良かったのかもしれない。時間が経てば経つほど、謝りにくくなるのは目に見えている。
だからといって、今更アパートへ引き返す勇気もなかった。
結局僕は、ここで頭を抱える事しかできずにいた。

 ずっと河原にいると、体が冷え切ってしまった。 日差しは弱くて、強い風が吹き付けるたびに、体温がどんどん下がっていく。
小川の流れは緩やかだ。自分の心も、いつもそんなふうに有りたいと思った。
でも現実は厳しくて、理想通りにはいかない。静かに愛を貫き通したいのに、心がすごくざわついている。
みっちゃんが恋しくてたまらない。
今朝はおはようのキスも、大好きだよのハグも、全部放棄して飛び出してしまった。布団を濡らした事で、日曜の朝の楽しみが、何もかも失われた。
こんな事になったのは、自分のせいだ。オネショの原因も、なんとなく思い当たる節がある。
みっちゃんがビールをガブガブ飲むから、それに負けじとジュースを飲みまくった。
昨夜は水分を取り過ぎたんだ。それが祟って、寝ている間におもらししてしまったんだ。
もしも昨日に戻れたら、ジュースは少しでやめておくのに。今頃そんな事を考えても、もう遅すぎるけれど。

*   *   *

 さらさら流れる小川の音色を聞いていた時、耳に小さく雑音が飛び込んで来た。それはゴツゴツした石ころを、力強く踏みつけるような音だった。
振り返ると、急いで駆け寄って来るみっちゃんの姿が遠目に見えた。
彼はその時、しわくちゃなシャツを着ていた。僕と同じように、畳の上の洋服をそのまま着てきたようだった。
大好きな人が追いかけて来てくれた。
一瞬そう思って、足を前に踏み出そうとした。でも実際に彼が近くに来ると、足は動かず止まってしまった。
みっちゃんの目はつり上がり、口はへの字になっていた。輪郭はもっとシャープなはずなのに、頬を膨らませて怒った顔をしている。
やっぱり想像した通りだった。オネショがバレて、彼は怒りを爆発させたんだ。
怒り狂ったみっちゃんが、目の前に迫って来た。するとその時、前方から強い風圧を感じた。
その迫力に押されて、思わず後ずさりをした。その時足に触れたのは、名もない雑草の群れだった。後方には小川があって、もう逃げ道はない。
川に身を投げるか、彼に捕まるか。僕には既に、2つの選択肢しか残されていなかった。
「ちょっと来い!」
動けずにいる間に、あっさり彼に捕まった。肩をがっちり掴まれると、完全に自由が奪われてしまった。
ヨタヨタしながら河原を引き摺られて、強制的に道の真ん中へ連れ出された。そして体は、どんどんアパートの方へと流されていった。
みっちゃんに肩を抱かれて歩くなんて、普通であれば嬉しい出来事のはずだった。でも今は、それどころじゃない。彼の手の力が強すぎて、苦痛を感じざるを得なかった。
僕の右肩には、5本の指が食い込んでいる。シャツを脱いだら、その痕が真っ赤になって残っているだろう。細身な彼のどこにそんな力があるのか、僕には到底分からなかった。
それにしても、これからいったいどうなってしまうんだろう。この状況を乗り越えて、みっちゃんと再び愛し合う事はできるんだろうか。

 僕はアパートへ向かう間に、何度も謝ろうとした。もしも布団が使い物にならなくなったら、小遣いをかき集めて弁償するつもりにもなっていた。
でも口を開こうとするたびに怖い目で睨まれて、結局何も言えなくなった。
パン屋の前を通りかかっても、もうお腹が鳴るような事はなかった。さすがに今は、空腹を感じる余裕すら失われているようだ。
外はだんだん気温が上がって、心地のいい日差しが感じられるようになってきた。
2人の洋服はしわくちゃでも、このままデートへ行きたくなるような、そんな気候に様変わりしていたんだ。
それでもみっちゃんは、ずっと不機嫌だった。目はつり上がったままだし、髪はボサボサで、まさしく鬼の形相だ。
木の葉は秋色に染まり、鮮やかに輝いている。日差しはとても優しい。空の色も綺麗だ。
そんな素晴らしい景色を全部通り越して、僕らは遂にアパートへ戻った。

 体を押されるようにして玄関へ入ると、廊下の隅にビールの空缶が転がっているのが見えた。
それを見た時、また昨日の後悔が思い出された。お酒が飲めない僕は、彼の飲みっぷりを楽しむぐらいにしておけば良かったんだ。そうすれば、こんな事にはならなかったはずだ。
昨夜2人が愛し合った部屋は、ブラインドが開けられて日が差していた。
畳の上にあるのは、乱れた寝床だけだった。シーツは端の方が折れ曲がっているし、毛布はみっちゃんが起き上がった形のままになっている。
オネショをするまでは、本当に幸せだった。薄い布団の上で重なり合った時には、これ以上の幸せは存在しないと思っていた。
もう一度、その瞬間に戻りたい。土下座でも何でもするから、僕を許してほしい。
みっちゃんは僕を布団の横に立たせ、つり上がった目でこっちを睨んでいた。
彼の手が離れても、やっぱり肩は痛かった。肌の表面には、強く食い込んだ指の痕が、間違いなく残されているはずだ。
でも今は、それすら愛しい。みっちゃんに触れられた証しが、愛しく思わないはずはなかった。
「お前に話がある。どんな話か分かるよな?」
しわくちゃなシャツの袖を捲って、彼が小さくそう言った。相変わらず口はへの字で、髪はボサボサだ。
僕は首を縦に振ってうなだれた。
みっちゃんは、またすぐに何かを言いかけた。だけど一旦その言葉を呑み込んで、乱れた毛布の角を掴んだ。
「話が長くなりそうだから、先に布団を片付けるよ」
への字の口がそう言った後、毛布が素早く引っ張られて、彼の腕に宿った。
するとその時、シーツに浮かぶ巨大な地図が、白日の下に晒された。
さっきは暗くて分からなかったけれど、想像以上に地図は大きかった。僕はどうやら、大量のおしっこを漏らしてしまったようだ。
みっちゃんは、体の動きを止めてそれをじっと見下ろしていた。
意地悪な日差しは、巨大な地図を明るく照らしている。秋の太陽は、彼の目にしっかりとその姿を焼き付けただろう。
「ごめんなさい……」
最初から、こうして謝れば良かった。
後先考えずに飛び出したせいで、余計に迷惑をかけてしまった。そしてきっと、必要以上に彼を怒らせた。
後悔と反省が、頭の中を駆け巡る。
その時みっちゃんが、ゆっくりと視線を動かして僕を見つめた。
その目はもうつり上がってはいなかった。への字だったはずの口も、今は丸い形になって少し開いていた。
「お前、オネショしたのか?」
「……まさか、知らなかったの?」
僕は驚きを隠せなかった。 みっちゃんは僕がオネショして怒っているものと思い込んでいた。なのに彼は、今初めてその事実に気付いた様子だった。
勢いを失った彼の目は、すっかり泳いでいた。日差しが目に乱反射して、僕の方にまで跳ね返ってきた。
みっちゃんの手から毛布が落下し、パサッと小さく音がした。毛布を離したその手が、今度は僕を揺さぶった。
「なぁ、お前が出て行ったのはこれが原因か?」
真剣な目をしてそう言われて、素直に頷いた。
布団の上の地図は、2人のやり取りを静かに見守っているようだった。

 みっちゃんの目に突然涙が光って、すごく動揺した。彼の涙を見るのが、生まれて初めてだったからだ。
大人の彼が頬を濡らすなんて、とても信じられなかった。それに、涙の意味がまるで分からなかった。
「どうしたの? 泣かないで」
みっちゃんの手が僕を離れた。その手は次に、顔を覆った。
「サヨナラするつもりで……出て行ったのかと思ってた」
その言葉に衝撃を受けた。
どうしてそんなふうに思うのか、不思議でならなかった。僕は彼を大好きなのに。何があっても、その思いは揺るがないのに。
「サヨナラなんかしたくない。みっちゃんが大好きだもん」
堪らない気持ちになって、彼に強く抱き着いた。みっちゃんは涙を隠すようにして、僕の肩に顔を埋めた。
すすり泣く声が、耳に悲しく響いた。足の裏には、擦り切れた畳の感触が伝わってくる。
震える背中を包み込むと、絞り出すように彼が言った。
「もうどこにも行くなよ」
大好きだよのハグは、涙に濡れていた。温かい水がシャツに沁みた時、僕はようやく理解した。
目が覚めたら、隣にいるはずの人がいなかった。
バスルームやトイレを覗いてみても、その影は見当たらない。
やがては洋服と靴が消えている事に気付く。
散歩へ行ったんだと思おうとしても、部屋にはメモすら残されていない。
僕はそんな状況を作り出してしまったんだ。そして彼を、不安に陥れたんだ。
いったいなんて事をしてしまったんだろう。
オネショなんかより、謝るならそっちの方が先だ。みっちゃんを悲しませてしまった事が、僕の1番の罪なんだ。
「ごめんね、みっちゃん。僕はどこにも行かないよ」
いつも甘えてばかりの僕が、必死に彼を元気付けようとしていた。気の利いた事なんか言えないし、側にいる事しかできないけれど。
僕の胸は彼に温められた。そして背中は、日差しが温めてくれた。1人の時は寒かったのに、今は心も体もポカポカしていた。
いつも大人の振る舞いをする彼が、今朝は情緒不安定だった。さっきまで怒っていたと思ったら、今は涙を止められず、顔を上げる事すらままならない。
横目で地図を見ると、少し恥ずかしさが込み上げてくる。でもオネショをした日の僕は、昨日よりもずっと幸せだった。
僕がいなくなると不安になって、これほどまでに乱れてしまう。
そんな彼を見て、愛されている事を実感した。僕はそれが、嬉しくて堪らなかったんだ。
でもそんな事を言うと、またみっちゃんを怒らせてしまいそうだ。
だからこの思いは、小さな胸にしまっておく事にした。今日の日の出来事が、笑い話に変わる時まで。
END

トップページ 小説目次