独白 後編
 僕は大学を出ると、不動産会社へ就職した。
広いオフィスには女性社員が大勢いたけど、仕事で関わる分には問題なくその人たちと接する事ができた。
それよりもどちらかというと、僕を困らせるのは先輩の男性社員の方だった。
自分に良くしてくれるのはありがたかったのだが、仕事が終わった後夜の街へ連れ出されるのは苦痛でしかなかった。
彼らはいつも女の人が接待してくれる店へ僕を連れて行った。 先輩たちは、男なら誰でもそういう所へ行きたがるものだと信じて疑わないようだった。
もちろん少しはその誘いを断ろうとする努力はした。でも新人社員が先輩社員に逆らうのは容易ではなかった。昔から僕は、人の誘いを断れない性質なのだった。
「給料も出た事だし、今夜はいい店へ連れて行ってやるよ。美人ホステスが揃ってる店だ。お前もチャンスがあったらやっちまえ」
5月の給料日の翌日。その日も中田先輩に夜の街へ誘われてしまった。 彼がアルマーニのスーツを着ていたのは、その店へ行くためだったのだと僕は悟った。


 その夜連れていかれたのは、繁華街の中央に位置する店だった。
白いエレベーターに乗って5階で降りた後、目の前にあるドアを先輩が引くと、ミニスカートをはいたホステスが笑顔で僕らに近付いてきた。
「いらっしゃいませ」
店内は広くて薄暗かった。四角いテーブルとソファーのセットが、店の奥までズラリと並んでいる。
「あちらの席へどうぞ」
そう言われてミニスカートの女の子についていくと、途中で別のホステスが走り寄ってきた。 巻き髪が肩の上で踊る、愛想のいい女の子だ。
「中田さん、また来てくれたのね? リサがお相手するから、早く座って」
リサという名のホステスは、中田先輩と顔見知りのようだった。たしかに色白な美人で、男好きしそうな女だった。

 僕らが席に着くと、リサさんにおしぼりを手渡された。
先輩は彼女がお目当てらしく、「一番高いボトルを持ってきて」と澄ました顔で注文した。
その時店内のテーブルはほとんどが埋まっていた。店の中は賑やかで、各テーブルにホステスが2〜3人ぐらいいたと思う。
「リサは美人だろ? お前はどんな女が好みなんだ?」
先輩が、熱いおしぼりで手を拭きながら問いかけてきた。
「僕は女に興味がありません」
本当はそう言いたかったけど、面倒な事になりそうなので、適当に笑ってごまかした。

 僕らのテーブルにはリサさんの他に由紀さんというホステスがやってきた。
先輩は最初から飛ばし気味で、グイグイ酒を煽っていた。 リサさんは中田先輩の扱い方をよく心得ているようで、彼はとても心地よく酒を飲んでいるように見えた。
「歳はお幾つですか?」
僕の相手を担当する由紀さんに尋ねられ、短く答えた。
「22歳です」
「あ、じゃあ私と同じ」
「そうですか」
「偶然だけど嬉しい。今日はいっぱい飲んでね」
彼女は本当に嬉しそうに笑いながら、僕のために水割りを作ってくれた。ショートカットがよく似合う、健康的な女の子だ。
この人となら、少しぐらい一緒にいても平気だろう。僕はそう思い、濃いめの水割りを少しずつ喉に流し入れた。
リサさんと先輩は僕らの横で盛り上がっているようだったので、彼らの事は放っておいた。

 しばらく時間が過ぎた時、先輩がトイレに立った。そのタイミングでリサさんがテーブルを離れ、店の奥へと消えていった。
すると同じ頃に由紀さんが他の客に呼ばれ、僕だけがテーブルに残された。
腕時計を見ると、思った以上に時間が経っている事に気付いた。そろそろ店を出ないと、終電に間に合わなくなる。
僕は先輩が戻ったら、それを口実にして帰ろうと思っていた。するとその時、僕の隣に第三のホステスが座った。
「由紀ちゃんは指名が入っちゃったみたい。今度は私がお相手するね」
彼女はそう言って髪をかき上げた。腰まである、茶色の長い髪だ。
グラスを持つ手が震えた。14歳の初夏の記憶が、断片的に蘇る。
「あなた、いい男ね。私の好みだわ」
男に媚びる感じではあったけど、上品で、耳障りのいい声だった。それは、あの人によく似ていた。
「綺麗な手をしてるのね」
彼女の手が、右手の指にそっと触れた。その瞬間に寒気がして、僕の心は凍り付いた。
「おい、ウブな子をからかうなよ。困ってるじゃないか」
突然男の声がして、その人を見上げた。 彼は僕らのテーブルの前に立って、ロングヘアーのホステスを睨み付けていた。
細身でラフな格好をした若い男の人だった。金髪で、目鼻立ちがはっきりした人だ。
「別にからかってなんかいないわよ」
女は急に不機嫌になり、すぐにどこかへ消えていった。
それをしっかり見届けた後、金髪の青年が僕の隣へ腰かけた。
「こっちは客なんだから、気に入らないホステスは退席させていいんだぜ」
彼はそう言って小さく笑った。僕は助け船を出してもらって、すごくほっとしていた。
「俺、こんな所へ連れて来られて退屈してるんだ。君もそうだろ?」
見事に言い当てられて、思わず苦笑いをした。
彼は整った顔立ちをしていた。白いシャツにジーンズという服装だったけど、アルマーニを着た先輩よりもずっと素敵だった。
「友達が亜美ってホステスに入れ込んでるんだ。俺は付き合わされてここに来たんだけど、最悪な店だよな」
僕も同じ事を思っていたから、今度は声を出して笑ってしまった。
そこはまったく最悪な店だった。お金を出して苦手な女の相手をしなければならないなんて、本当に最悪だった。

 青年は順基と名乗った。歳は僕より3つ上だった。
彼と居ると安心した。とても優しそうな雰囲気を持った人だったからだ。
口調が穏やかで、笑顔は爽やかで、年下の僕にも丁寧に接してくれる。
やけに馴れ馴れしいわけでもなく、それでいて友達みたいな接し方で、僕はそんな彼に好感を持った。
「俺、女に興味ないんだ。君もだろ?」
また言い当てられてドキッとした。さっき彼は、僕の手が震えている事に気付いたのかもしれない。
順基さんの恋の相手は、いつも男の人なのだろうか。
こんな人と付き合う事ができたら、灰色の人生がバラ色に変わるのかもしれない。
一瞬だけそんな淡い夢を見たけど、好きになるだけ無駄だと分かっていた。
僕は人には愛されない。現に今までだって、好きになる人に見向きもされなかった。
それは僕が汚れているからだ。14歳のあの日に、すっかり汚れてしまったからなのだ。
大人になった時、僕はそれに気付いてしまった。 だからもう人を好きになるのはよそうと思っていた。そんな事をしたって、傷付くだけだと分かっていたからだ。
「一緒に店を出ようぜ。ここに居たってしょうがないだろ」
「無理だよ。そろそろ先輩が戻ってくる」
僕がそう言うと、彼はしばらく何かを考えてから言葉を口にした。
「君の先輩って、アルマーニの人?」
「うん。どうして知ってるの?」
「あの人もう戻ってこないよ。髪がクルクルしたホステスと出て行ったぜ」
「え? リサさんと?」
その時は本当に驚いた。でもたしかに先輩がトイレに行ってからもう随分時間が経っていたし、あれからリサさんの姿も見当たらなくなっていた。
「今頃2人でよろしくやってるんだろ。アホらしい。帰ろうぜ」
少し考えた後、彼と一緒に店を出る事にした。今からなら、まだ終電に間に合うと思ったからだ。

*   *   *

 店を出てエレベーターに乗った時、自分が想像以上に酔っている事が分かった。
頭がクラクラするし、足元がフラついた。エレベーターの揺れがすごく気持ち悪くて、立っている事さえ辛かった。
「おい、大丈夫か?」
僕の異変に気付いた順基さんは、慌てて肩を抱いてくれた。一見痩せて見えたのに、彼の腕はとても筋肉質だった。

 外へ出ると、今度は人に酔った。金曜の夜の街は、人でごった返していたのだった。
肩を抱かれて引きずられるように歩くと、あちこちで輝くネオンが二重になって見えた。
「どこかで少し休むか?」
順基さんの声がガンガン頭に響いて、こめかみの付近が痛くなった。
「急がないと。終電に間に合わなくなる……」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。フラつきながら通りを歩くと、何度も人にぶつかった。
「駅まで15分はかかるぞ。とても歩けないだろ?」
たしかにその通りだと思った。順基さんに支えてもらわないと、腰が砕け落ちそうな気がしていた。
「少し寝ればスッキリするさ」
そう言われて右の方へ曲がり、大きな通りを少し外れた。それから彼に伴われて、すぐ近くのホテルへ入った。
初めて会う人とホテルへ行くなんて、通常ではあり得ない。 でもまっすぐ歩く事もできない状態だったから、自分ではどうする事もできなかった。


 ホテルの部屋は薄闇に包まれていた。僕はすぐにベッドへ運ばれて寝かされた。
「寝ろよ。明日は休みだろ?」
順基さんの姿は見えなかった。ベッドへ倒れ込んだ瞬間から、僕はもう目が開かなくなってしまったのだ。
苦しかったのでネクタイを外し、上着を脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンも外して、身に着けている物を全部どこかへ放り投げた。
裸になると楽になり、それからそのまま眠ってしまった。

 僕は恐らく熟睡していた。だけどある時、すぐ側に人の気配を感じた。
布団がモゾモゾ動いて、人肌の温もりが近くにあった。
誰かの指が、髪に触れる。僕の口は、カサカサな唇でフタをされた。
息が苦しい。胸も苦しい。そして、身動きができない。まるで自分の体が自分のものじゃないみたいだった。
視界は真っ暗で、何も見えない。胸やお尻に細い指が触れる。その感触は、いつまでもいつまでも肌に残った。
体が熱くなって、耳も熱くなって、肌にじわっと汗が浮かんでくる。
これは前にも味わった事のある感覚だ。遠い昔に、今と同じような事があった。
激しい頭痛を感じるのは、どうしてだろう。あの時も、すごく頭が痛かった。
「坊や、可愛いよ」
誰かの息が耳に触れ、体が急に寒くなる。
すごく怖かった。体が震えた。嫌だ。あの時と同じだ。怖い。誰か助けて。
ジャーーーーーッ
気付いたのは音が先だった。僕はおもらしをしてしまい、ハッとして目を開けた。
すると、目鼻立ちのはっきりした男の人が僕を見下ろしていた。
さっきのは順基さんだ。彼女じゃない。
順基さんは戸惑ったような、困ったような、なんともいえない複雑な表情をしていた。
彼は僕の上にいたから、散々おしっこを浴びていただろう。
僕はやっと状況を把握し、子供のように泣きじゃくった。 自分はずっとこんなふうなのかと思うと、あまりにも辛くて感情が爆発してしまったのだ。
「ごめん。怖かった? ごめんね」
「違う……違うんだ」
しゃくり上げて泣いてしまい、それだけ言うのが精一杯だった。
怖かったのは順基さんじゃない。14歳のあの日の出来事がフラッシュバックして、こんな失態を犯してしまったのだ。
お腹や腕が、生温かいおしっこで濡れた。そして僕の頬は涙で濡れてしまっていた。

 その後僕は、布団をかぶって泣き続けた。涙が枯れてしまうのではないかと思うほど、長い間泣いていた。
順基さんは、その間にどこかへ行ってしまった。
あの最低な店で彼と知り合えたのは、すごく幸運だった。かっこ良くて優しくて、すぐに好きになってしまいそうな予感がした。
なのに14歳のあの日のトラウマが、こうして恋の邪魔をする。
僕は一生あの日の恐怖に支配されて生きていくのだ。それを思うと絶望的な気分になって、更に涙が溢れた。
ずっと苦しかった。あれから僕は、ずっとずっと苦しんできた。
何度も悪夢にうなされた。何度もあの人に襲われる夢を見て、目覚めるといつも1人で泣いてしまった。
順基さんのように、優しい人だったら良かった。もし初めての人が彼だったら、僕は絶対こんなふうにはならなかった。
でももう遅いのだ。どうやっても時間を巻き戻す事はできない。
彼女の家へ行く前に戻る事もできないし、ほんの1秒前の自分に戻る事さえできないのだ。
「お湯を入れたよ。風呂に入ろう」
その声がした時、すごく驚いた。順基さんはもう呆れて帰ってしまったと思っていたのに、まだここに居てくれたのだ。
「バスルームの窓から星が見えるんだ。一緒に星を見ようよ」
遠慮がちに、ゆっくり布団が剥がされた。
涙を拭いて見つめる先には、裸の彼が立っていた。


 まだ気持ちの整理が付かないうちに、僕はバスルームへと引っ張られていった。
何も考えずにバスタブに入ると、窓の外に本当に星空が見えた。
「綺麗だろ? 地上にはネオンが光ってるけど、夜空にはたくさんの星が光ってるんだ」
順基さんはバスタブの中で足を伸ばし、遠い星を眺めた。

 2人はしばらく何も話さなかった。僕も彼も星を眺めながら、お湯に浸かっていただけだ。
僕は恥ずかしくて、順基さんの顔が見られなかった。
あの後呆れて出て行ってくれていたら、どんなに気持ちが楽だっただろう。
そう思う気持ちと、僕を見捨てず留まってくれた喜びが、心の中で交差した。
静かな空気に耐えられず、バスタブのお湯を揺らしてバシャバシャと音を立てた。それからしばらくして、彼が沈黙を破った。
「怖い思いさせてごめん。本当にごめん」
彼が申し訳なさそうに言うので、僕は大きく首を振った。あんな事になったのは、決して彼のせいではなかったからだ。
その時は順基さんも、僕の顔が見られない様子だった。彼はユラユラ揺れるお湯を見つめて、独り言のように言葉を発していた。
その様子を見て堪らなくなり、お湯の中を移動して恐る恐る彼に近付いた。するとすぐに、順基さんが背中から抱きしめてくれた。
「君は隙だらけだったよ。裸で可愛い顔して眠ってるから、つい手が出ちゃったんだ」
耳元に響くその声に、すごくドキドキした。男の人に可愛いと言われて、恥ずかしいけど嬉しかった。
「でもそんなの言い訳だよな。まだ知り合ったばかりなんだし、もっと君を大切にするべきだった。反省してるよ」
彼は手でお湯をすくって、肩にかけてくれた。
重いトラウマを背負った日の事を思うと、今が信じられない思いがした。
汚れてしまった僕は、誰にも愛されないとずっと思い込んでいた。だけど、こんな僕にも優しくしてくれる人がいた。
僕はもしかして、彼を好きになってもいいのだろうか。
「俺の事、嫌いになった?」
不安そうなその声を聞いて、僕が取り乱した理由を、きちんと話さなければいけないと思った。
またこんな事が起こらないとも限らないし、ここでけじめを付けて嫌な思い出とサヨナラし、自分を変えたいと思った。
僕は彼を拒んだわけではない。できればしっかりと受け入れたかった。その思いを今、彼に伝えたい。
背中に感じる彼の温もりと、窓の外に輝くたくさんの星たち。僕はそれに勇気をもらって、重い口を開く事ができた。
「僕……中学生の時、女の人に襲われたんだ」
「……そんな事があったのか」
「あの時はすごく怖くて、本当に怖くて。さっきはごめんね。多分酔ってたし、熟睡してたから、順基さんだって分からなかったんだ。僕、あの時に引き戻されちゃったんだ。あの怖かった時に……」
「もういいよ。分かったから、もう何も言わなくていい」
僕を背中から抱きしめる腕に、強い力が加わった。
この人は、多くを語らなくても僕を理解してくれる。そんな人に出会ったのは、生まれて初めてだった。
「君を好きになってもいい?」
返事をするのが恥ずかしくて、僕は何も言えなかった。その代わりに、彼のたくましい腕に短いキスをした。


 部屋へ戻ると、順基さんは濡れたシーツをバスタオルで覆った。
おもらししてしまった事を思い出すと、恥ずかしさと申し訳ない気持ちが交互に自分に襲いかかってきた。
「迷惑かけてごめんね」
小さな声でそう言うと、彼は笑顔を返してくれた。順基さんは何も言わなかったけど、僕は彼の思いをちゃんと理解していた。

 床の上には、僕が投げ捨てた洋服が散乱していた。
僕たちはそれを避けるように歩いて、2人はベッドで仰向けになった。そして、布団の下で手を繋いだ。
酔いはすっかり冷めていて、僕は彼が欲しかった。
「朝になったらここを出て、何か美味しい物を食べよう」
彼は僕を大切にしてくれようとしていた。でも僕は、その前にしてほしい事があったのだ。
「嫌な事全部忘れさせて。お願い」
僕は彼の横顔に語りかけた。自分にこんな大胆な一面があったなんて、今まで知らなかった。
順基さんは少しの間天井を眺めていた。 鼻の形がとても綺麗だった。薄闇の中で、金色の髪が鈍い光を放っている。
それから彼は、モゾモゾと動いて僕の上になった。
金色の髪が揺れて、頬が少しくすぐられる。彼の優しい目は、僕だけをまっすぐに見下ろしていた。
「君の望みを叶えてあげるよ。自慢じゃないけど俺、ベッドですごいんだ。マジでぶっ飛ぶぜ。何もかも忘れさせてやるから覚悟しろ。すぐに天国へ連れて行ってあげるよ」
彼はそう言ってクスッと笑った。かすかにアンモニアの香りが漂っていたけど、きっと彼は気にしない。
カサカサな唇が、僕の口にフタをする。2人の舌が絡み合って、渇いた唇はすぐに潤う事だろう。
彼はキスが上手だった。すごく気持ちが良くて、徐々に意識が遠くなっていく。
好きな人と結ばれるのは、今日が初めてだ。
これからお楽しみが待っているから、僕の話はここまでにしておこう。
END

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