不完全犯罪
 事件の犯人は、必ず犯行現場へ戻る。
どこかでそんな言葉を聞いたような気がするけれど、どうやらそれは本当かもしれない。
俺は今日、学校が終わると急いで教室を出た。一刻も早く家へ帰って、やらなければならない事があったからだ。
遊びの誘いも断って、一目散に駅へ走り、帰りの電車に乗り込んだ。
こんな日は、電車のスピードがやけに遅く感じる。
車窓に浮かぶ景色も、まったく楽しむ余裕がない。すごく時間が気になって、何度も何度も腕時計を見る。
犯行現場は、今頃どうなっているだろう。とにかく早く証拠隠滅を図りたい。
弟の渚が学校から帰ってくる前に。勘のいい母さんが、犯行に気付いてしまわないうちに。


 家の最寄り駅に着き、急いで電車を降りると、一番近道をして帰った。
駅前通りを外れて、獣道を走り抜け、他人の家の軒下を通って、やっとの思いで自宅の裏側へたどり着いた。
ところがその時は、もう遅かった。俺の犯行は、既にバレていたんだ。
なんとかして証拠隠滅を図り、完全犯罪を成し遂げたかったのに、その計画は打ち砕かれてしまった。
裏庭の物干し竿に、布団が干してあった。それには確かに、丸い地図が浮かんでいる。
ブロック塀の外側から、茫然とその様子を眺めた。すると急にめまいがして、一瞬体がフラついた。
思わずしゃがみ込んで、頭を抱えてしまう。午後の日差しは強すぎて、脳天が焼け付くように熱かった。
今朝はオネショをして、濡れた布団を押し入れの奥に隠しておいた。ところが犯行の証拠品が、母さんに見つかってしまったのだった。

 俺はしばらく動けなかった。ただ俯いて、自分がどうするべきかを考えた。
今は本当に悲惨な状況だった。だからこそこれ以上事態を悪くする事は、絶対に回避したいと思っていた。
母さんに犯行がバレた事は、もう仕方がない。でも中1の弟にだけは、どうしてもオネショした事を知られたくなかった。
弟はいつも俺を頼りにしてくれる。勉強で行き詰まった時も、友達と喧嘩した時も、必ず一番に相談してくれた。
そうする事が、問題解決の近道だと信じているからだ。兄貴に相談すれば、的確なアドバイスが得られる事を知っているからだ。
渚は俺を万能な人間だと思っている。でもオネショした事がバレてしまったら、その名声は地に落ちるだろう。
それだけは、絶対に避けたかった。可愛い弟に、尊敬される人であり続けたかったからだ。
すごく気が重いけれど、母さんに頭を下げるしかない。オネショした事を絶対に弟には言わないように、なんとかお願いしてみよう。

 俺は堂々と玄関へ回る勇気がなくて、裏口からこっそり家の中へ入った。
右手には、2階へ続く階段がある。できればそこを駆け上がって、どこかへ隠れてしまいたい。
でもそれはできなかった。今すぐ母さんと、話を付けなければならないからだ。
薄暗い廊下を忍び足で歩き、リビングのドアの前に立った時、急に涙が込み上げてきた。
もう高校生だっていうのに、どうしてオネショなんかしちゃったんだろう。
いつもは渚と布団を並べて寝ているけれど、それを続ける事が不安になってきた。また今日みたいな事があったら嫌だから、弟とは寝室を別にした方がいいのかもしれない。
それを思うとすごく悲しかった。でもまずは、母さんと話すのが先だ。それからの事は、また後で考えよう。
俺はそっと涙を拭って、リビングのドアに手を掛けた。するとその時、ドアの向こうから母さんと弟の話し声が聞こえてきた。
渚はもう学校から帰ってきていたのだった。それが分かると、絶望的な気分になった。
「今度から、オネショした時はすぐに言いなさいよ。分かった?」
「うん、分かった」
「おやつ食べる? チーズケーキがあるけど」
「ねぇ、お母さん……」
「何?」
「僕がオネショした事、お兄ちゃんには黙っててね」
「分かってる。誰にも言わないわよ」
2人の会話に驚いて、涙は枯れた。
どういう事なのかさっぱり分からず、ドアの前を離れた。その後夢中で階段を上って、すぐに寝室へ飛び込んだ。

*   *   *

 寝室の様子は、いつもと変わりがなかった。
窓の向こうには空が見える。畳は青く、床の間に花が飾られ、押し入れの戸にはカレンダーが貼り付けられていた。
頬が熱いのは日差しのせいじゃない。思ってもみなかった状況に、心が動揺しているせいだ。
今朝目が覚めると、すぐにオネショした事に気付いた。パジャマも布団も濡れていて、それは正しく事件だった。
その時渚は、隣の布団で眠っていた。口を開けて、ひどい寝相で、小さく寝息を立てていたんだ。
俺はオネショがバレずに済む方法を、即座に考えた。
それにはまず、渚が起きるのを待たなければいけないと思った。
彼は目を覚ますと、すぐにシャワーを浴びるのが習慣になっている。だからその間に濡れた布団を隠して、学校が終わってから後始末をしようと思ったんだ。
俺は毛布の下でパジャマを脱ぎ、渚が起きるのを今か今かと待っていた。
足を投げ出して、髪に寝癖を付けて、可愛い顔をして眠っている。弟のそんな姿を見ると、いつも心が和らいだ。
でも今日だけは、まったく違う思いでいた。今朝は寝相の悪い弟に向かって、早く起きろと何度も念じていた。
そのまま根気強く待ち続けると、やがて渚は目を覚ました。
その後俺は決して目を開けずに、寝たふりをして弟の気配を窺っていた。
布団をたたんで、押し入れに収納して、畳の上を静かに歩く。見慣れたその動きは、目を閉じていても頭の中で再現された。

 渚が寝室を出て行くと、すぐに飛び起きて、濡れた布団を押し入れの奥にしまい込んだ。
今朝の段階では、犯行を隠す事に成功した。誰にもオネショがバレないうちに、俺も渚も学校へ行ったんだ。
母さんは、その後押し入れの戸を開けたに違いない。そこで濡れた布団を発見した時、オネショは弟の犯行だと思い込んだのかもしれない。
そして母さんは、渚を問い詰めた。そこまでは想像がつくけれど、弟が犯行を認めたのは驚きだった。
母さんの話を聞いた時、渚は俺がオネショした事を知ったはずだ。それなのに、彼は黙って罪を被ったのだった。
いったいどうしてそんな事をしたのか、俺には本当に分からなかった。
自分がやってもいない犯行を認める。そんな事に、どんな意味があるのだろう。

 様々な思いを巡らせながら、フラフラと押し入れに近付いた。
右手で戸を開けると、そこには1枚の布団が綺麗にたたんで収納されていた。俺の布団は裏庭に干してあるから、ここにあるのは弟の布団のはずだった。
母さんには、運よく犯行がバレずに済んだ。でも1番知られたくない人に、オネショした事がバレてしまった。
しかも俺は、渚に罪を擦り付けたんだ。自分がそうしたわけではなくても、現にそういう形になってしまっている。
もう今日からは、万能な兄貴ではいられない。
高校生なのにオネショして、その上冤罪を生み出すような男が、尊敬されるはずがない。
その現実が心に重く圧し掛かると、再びめまいに襲われた。
床の間に飾られた花が、揺れ動いているように見える。空に浮かぶ雲は、猛スピードで走り去っていく。
渚に会うのが怖かった。弟と対面した時、どんな顔をすればいいのか分からない。あまりにも恥ずかしくて、目を見る事すらできそうにない。
そんな思いが、心の中を駆け巡った。体はフラつくし、それに頭痛も加わって、このままでは自分が壊れてしまいそうな気がした。
もうダメだ。今日は具合が悪くなった事にして寝てしまおう。
それは姑息な手段だった。でもこの時は、それしか思い付かなかったんだ。

 俺は押し入れの中から布団を取り出して、すぐに床の上に広げた。ところがそうした途端に、おかしな事に気付いてしまった。渚の布団に、はっきりと丸い地図が浮かんでいたんだ。
それはついさっき裏庭で見た物とそっくりだった。つまりは、オネショの証しと言えた。
「えっ?」
思わず声が出た。その瞬間にめまいは消え去り、頭の痛みも吹っ飛んだ。
思いがけず目にした光景は、不気味なほど静かな寝室の中で、自分に何かを語りかけているようだった。
これはいったいどういう事なのか、俺は1人で考えた。
ここにあるのは俺の布団なのか? だとしたら、外に干してあるのは渚の物だというのか?
その可能性はゼロではないけれど、その答えを導き出す事に意味はなかった。
裏庭の布団も、ここの布団も、同じように地図が描かれている。心の目で2枚の布団を見比べた時、ようやくすべてを理解した。
昨夜は渚もオネショをしたんだ。
弟は今日、学校から帰ってくるのがやけに早かった。それはきっと、俺と同じ事を考えていたからだ。
放課後すぐに家へ帰って、オネショの後始末をして、証拠隠滅を図る。
渚は朝からその事で頭がいっぱいだったはずだ。俺もそうだったから、その気持ちは痛いほど分かる。
勘のいい母さんは、そこから何かを感じ取って、押し入れの戸を開けたのかもしれない。そして濡れた布団を見つけた時、それが渚の物だと思い込んだんだ。
だけどまさか、2人揃ってオネショをするとは考えもしなかったのだろう。だから母さんは、もう1枚の布団の異常には気付かなかったんだ。
今となっては、渚の思いが容易に想像できた。
急いで家へ帰ってきて、物干し竿に布団を見つけて、母さんに犯行がバレた事を知る。
そして彼は、俺にだけはオネショした事を隠しておきたいと思ったんだ。だから母さんに頭を下げて、犯行を内緒にしてほしいと頼んだんだ。
俺たち2人は、今日という日を同じ思いで過ごしていた。たとえ離れていても、同じ空の下で、気持ちが1つになっていた。
それが分かると、心の中が燃え滾るように熱くなった。
俺はもう一度丸い地図をじっと見つめた後、床に広げた布団をたたんで押し入れに戻した。
窓から空を見上げると、雲がゆっくり動いていた。
もう慌てる必要はない。春の空は、俺にそう言ってくれているような気がした。


 しばらくすると、階段を上る軽快な足音が近付いてきた。弾むような足音はすぐ側で止まり、渚が寝室に姿を現した。
俺とよく似た薄い唇。俺とよく似た高い鼻。まるで渚が、自分の複製のように思えてくる。
「お兄ちゃん、帰ってたの?」
窓の近くに兄貴を見つけて、弟はすごく驚いていた。
それもそのはずだ。俺は裏口からこっそり家に入り、黙ってここへ来たのだから。
彼はまだ制服姿だった。襟にラインの入ったブレザーは、真ん中のボタンが取れそうになっている。
驚きに満ちた表情が、はにかむような笑顔に変わっていった。口元は綻んで、頬が仄かに赤く染まり、目には日差しが反射している。
渚は自分を映す鏡だった。今の俺は、彼と同じ顔をして微笑んでいるのだろう。

 ずっと胸に秘めていた思いを打ち明けよう。
俺は不意にそう思った。大事な告白をするとしたら、今だと思ったんだ。
渚に大好きだよって言ったら、きっと同じ言葉を返してくれる。俺たちは本当によく似ているから、弟も同じ思いでいてくれているはずだ。
2人の気持ちが通じ合えたら、今夜は彼を抱いて寝よう。
お互いの肌の温もりを感じながら、唇を合わせ、体を重ねて、朝まで愛し合うんだ。
それは新たな犯行と言えるのかもしれない。オネショなんかより、もっと大きな罪に問われても仕方のない行為だ。
それでも俺たちは、朝になるといつも通りに学校へ行き、何食わぬ顔をして犯行現場へ戻るだろう。
証拠隠滅のためではなく、2人で罪を重ねるために。

END

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