初めての朝
 朝の光を感じて、僕はゆっくりと目覚めた。
薄いカーテンの向こうから、明るい日差しが入り込んでいる。
体中に、心地よい気だるさを感じた。昨夜は彼の部屋に泊まって、何度も何度も愛し合った。僕の肉体には、その痕跡がまだたっぷり残されているようだった。
とても素敵な朝だ。僕は好きな人と迎えた初めての朝に、とてつもない幸せを感じていた。

 でも、何かがおかしい。こんなに幸せな朝なのに、お尻の下に言い知れぬ違和感がある。
僕はその嫌な感じが何なのかを知りたくて、シーツの上に指を這わせた。すると指先に、冷たく湿った感触があった。
何?
慌てて体を起こし、毛布の下を恐る恐る覗いた。
するとそこには、言い知れぬ違和感の原因がはっきりと示されていた。白いシーツの上には、濡れた地図が大きく描かれていたのだった。
え? オネショ?
嘘だ。絶対あり得ない。だって僕、もう16歳だよ。
とても信じられなくて、もう一度毛布の下を覗いてみた。だけど、結果は何も変わらなかった。

 どうしよう。
心臓がドキドキして、急に汗が出てきた。
ベッドに原田くんの姿はない。どこからか、バターとコーヒーの香りが漂ってくる。
彼は僕より先に起きて、朝食を作ろうとしているのかもしれない。

 コンコンと小さくノックされた後、白いドアが開いて原田くんが顔を出した。その時僕は、オネショをしてしまった自分に呆然としていた。
「おはよう。シャワーを浴びておいでよ。もうすぐ朝ご飯ができるからね」
彼は優しく笑ってそう言った。そしてベッドの隅にバスローブをそっと置いて、静かに寝室を出て行った。
床の上には、僕の洋服が畳んで置いてあった。昨夜脱ぎ捨てたセーターも、パンツも、原田くんが綺麗に畳んでおいてくれたようだった。
彼はいつものように穏やかだった。オネショの事には、まだ気付いていない様子だった。

 僕はすぐにベッドを下りて、バスローブを片手でつかみ、バスルームへと急いだ。
5分でシャワーを浴びて、さっさと洋服を着たら、すぐにここを出よう。泣いて落ち込むのは、もう少し後にしよう。

*   *   *

 熱いシャワーを頭から浴びると、原田くんとの思い出が蘇ってきた。
僕の人生はもう終わりだ。人は死ぬ時それまでの人生が走馬灯のように蘇るというが、それは本当の事だと分かった。
原田くんはホテルマンだ。僕達の出会いは、彼の働くホテルでの事だった。
僕はその夜、高校の合格を記念して、ホテルのレストランで両親と食事をする約束をしていた。
ただロビーで待ち合わせをしたはずなのに、父さんも母さんもなかなかやって来なくて、そこで随分待たされた。
2人へ連絡しても一切返事がなくて、一人ぼっちの僕はだんだん不安になり、もう帰ろうかと思い始めていた。
「あちらへどうぞ」
その時優しく声をかけてくれたのが原田くんだった。彼はグレーのスーツがよく似合っていた。背筋がピンと伸びて、髪はビシッと固められていて、とても素敵なホテルマンだと思った。
彼はきっと、ロビーをウロウロしている少年の様子が気になったのだろう。僕は彼に促されてロビーのソファーに座り、やがて目の前にコーヒーが運ばれてきた。
「待ち合わせ? 大丈夫。きっともうすぐ来るよ」
あの時の彼の優しい笑顔が忘れられない。僕を安心させるような、太陽のような笑顔だった。少し前まで誰も来なくて不安になっていたのに、あの笑顔ですべてが吹っ飛んだ。
告白したのは、僕の方から。3日後にもう一度ホテルへ行って、フロントに居る彼を見つけて、「好きです」って言ったんだ。
初めてのデートは、映画館。暗闇の中でそっと手を握られて、映画の内容が全然分からなくなった。
初めてのキスは、車の中。月が綺麗な夜の事。そして初めて2人で朝を迎えたのが、今日だった。
「ずっと……ずっと一緒に居ようね」
昨夜彼はそう言った。キスの合間に、途切れ途切れに、僕にそう言ってくれたんだ。
でもその計画は、もう台無しになってしまった。


 シャワーを浴びた後、大急ぎで寝室へ戻って洋服を着た。
とにかく早くここを出たかった。オネショした事を彼に知られる前に、僕は消えてしまいたかった。
泣くのは後にしようと思ったのに、ポロポロと涙の粒が落ちてくる。
こんな形で終わりが来るなんて、思ってもみなかった。
いつもはオネショなんかした事がないのに、どうして今日に限ってやっちゃったんだろう。彼との初めての朝が最後の朝になるなんて、昨夜は思いもしなかった。

 背中に感じる朝日が、とても痛い。
ベッドの他に何もない寝室を、最後にじっくりと眺めた。
昨夜は気付かなかったけれど、ベッドはそれほど大きくはなかった。 フローリングの床は少し冷たい気がしていたのに、日差しが入り込む今は、足がとても暖かい。
この部屋に来る事は、もう二度とないだろう。まだ髪が濡れているけれど、すぐにここを出よう。
最後に僕は、毛布をめくってもう一度シーツを覗き込んだ。そこにあるオネショの証が、幻だったらいいのにと願いながら。

 あれ? どうして?

 毛布をめくった僕は、信じられない思いで立ち尽くした。あまりの驚きに、涙もどこかへ吹っ飛んだ。
目の前には、ピンと張られた白のシーツがあった。そこには地図など存在していない。どこを触っても、濡れている気配すらない。

 嘘だ。僕はたしかにオネショをした。さっきまで、シーツはたっぷり濡れていたんだ。何度も地図を確認したし、お尻の下は冷たかった。でも今は、その痕跡がまったくない。
それに、シーツはもっと乱れていたはずだ。昨夜あれだけ愛し合ったのだから、そうに決まっている。
僕はベッドの隅々まで慎重に観察した。
ピンと張ったシーツの角はきちんと整えられて、マットの下に美しく折り込んであった。それは間違いなく、プロのホテルマンの仕事だった。

 その時になって、ようやく分かった。原田くんは僕をバスルームへ行かせて、その間に素早くシーツを取り替えたんだ。でもはぎ取られたはずの濡れたシーツは、どこにも見当たらなかった。
冷静になって考えると、彼が何も気付かないのは不自然だった。 昨夜からずっとベッドで一緒だったし、僕らはくっ付いて眠っていたのに、こんな大事件に気付かないはずはない。
オネショの事を知った時、原田くんはきっと、その証拠を消し去る事を考えたんだ。それから作戦を練って、僕をバスルームへ誘導したんだ。
僕が羞恥心に耐えられず、逃げ出す事を知っていたから。彼は僕の事なら、なんでも分かるから。

*   *   *

 ほんの一瞬でも、彼と別れる事を考えた自分が信じられない。
原田くんほど優しい人はいない。きっとこれ以上の人は、もう二度と見つからない。
「ご飯ができたよ。早くおいで」
ノックもなくドアが開いて、原田くんが顔を出した。
いつもの優しい笑顔だった。まるで何もなかったかのような、穏やかな笑顔だ。

 僕は彼に手を引かれてリビングへ向かった。するとコーヒーの香りを、さっきよりも強く鼻に感じた。
ダイニングテーブルの上には、出来立ての朝食が並べられていた。目玉焼きと、トーストと、サラダと、少量のパスタだ。そしてマグカップには、なみなみとコーヒーが注がれていた。
初めての朝に、2人分の朝食。僕達を祝福するような、朝の日差し。そして、彼の手の温もり。
ここには幸せしかない。それ以外には、何もない。

 僕はさっきまで気が動転していて、原田くんが青いセーターを着ている事に気付きもしなかった。それは先月僕が贈った誕生日プレゼントだった。
「そのセーター、着てくれたんだね」
「うん、気に入ってるんだ」
原田くんは、僕の頬に軽くキスをした。それから弾んだ声で、いくつかの提案をした。
「今日は天気がいいから、ドライブに行こうか? それとも、遊園地の方がいい? それより買い物に行く?」
彼は僕の失敗について、一切何も語らなかった。何も語らず、何も気付かず、すべてをなかった事として扱ってくれた。
そうだ。彼はそういう人だ。そんな事も分からなかったなんて、僕はバカだ。
さっきとは違う涙がこぼれて、彼の胸に飛び込んだ。原田くんは震える僕を受け止めて、きつく抱き締めてくれた。
「好きだよ」
今言おうとした事を、先に言われた。僕は胸がいっぱいで、言いたい言葉がなかなか言えなかった。
遠くの方で、洗濯機の回っている音がした。
今日の事は、絶対に忘れない。
彼と迎えた初めての朝は、甘酸っぱい思い出として、僕の記憶に永遠に残り続けるだろう。
END

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