ホテルの怪
 俺はスヤスヤと眠っていた。枕はフカフカだし、ベッドは広くて、とても心地よく眠っていたんだ。
なのにその心地いい眠りが、ある時突然奪われた。
「あっ!」
大きな叫び声を聞いて、俺はすぐに飛び起きた。
だけど一瞬そこがどこだか分からなかった。 部屋の中は薄暗くて、見慣れない棚が置いてあり、壁には絵画が飾られている。
徐々に頭が冴えてくると、やっとすべてを思い出した。 俺はフミくんと一緒に、ラブホテルへ泊まっていたのだった。
裸の彼は、ベッドの上で座り込んでいた。その時布団はめくられていた。
「どうしたんだよ。大きな声を出して……」
欠伸をかみ殺しながら声を掛けると、彼の視線がベッドの真ん中あたりに動いた。
いったいなんだと思って見てみたら、そこには大きな地図が描かれていた。 シーツは明らかに濡れていて、それはどう見てもオネショの痕だった。
これにはさすがに驚いて、こっちも大きく叫んでしまった。
「俺じゃないぞ!」
「僕でもないよ!」
「じゃあ誰がやったんだよ!」
その時は本当に訳が分からなくて、俺はかなり動揺していた。想定外の出来事に、頭がついて行けなかったんだ。
「もしかして……オバケがやったのかな?」
怯えた目をして、フミくんが言った。彼の唇は微かに震え、顔は少し青ざめていた。
「きっとそうだよ。オバケが出たんだ。怖いよ。早く帰ろう」
泣きそうな声でそう言われると、なんだか俺も怖くなってきた。
裸の2人はベッドを飛び降り、急いで洋服を身に着けた。とにかくその時は、一刻も早く部屋を出たかったんだ。
このホテルは以前墓地のあった場所に建てられていて、オバケが出るという噂があった。
それを信じているわけではなかったけれど、それ以上何も言えなくて、結局この話は有耶無耶になってしまった。

 後から冷静になって考えると、おのずと答えは出た。
フミくんには、オネショの癖があるんだ。そしてその事を、俺には絶対に隠しておきたかったのだろう。
それなのに、あの日は一緒にホテルに泊まってくれた。それは多分、朝まで2人で居たいと思ってくれたからだ。
秘密がばれるリスクを背負って、彼は俺に付き合ってくれた。その事が、本当に本当に嬉しかった。
オバケのせいにしてオネショをごまかす所も、可愛らしくてもっと好きになった。
でもあの日の事がトラウマになって、もう一緒に泊まるのは嫌になってしまったかもしれない。 彼がそう考えるのは必然だったけれど、それはあまりに寂しすぎる。
フミくんとは中2の時からの付き合いだったが、2人はこの春高校生になって、自由の範囲が少し広がり、親もたまの外泊は容認してくれるようになっていた。
だからこそ彼と一夜を過ごす事ができたのに、その自由を手放すのは忍びなかった。

*   *   *

 ゴールデンウィークの初日は、フミくんと2人で出かけた。
俺はこの日、もう一度彼とホテルへ泊まるつもりでいた。 でもすぐに誘うのも気が引けて、昼間のうちは2人で楽しく過ごす事を優先させた。
最初は彼の買い物に付き合って、美味しいランチを食べて、午後になると公園を散歩する事にした。
芝生の緑は眩しくて、花壇には赤やピンクの花がいっぱい咲いていた。空は真っ青で、春の日差しは温かい。
飛行機雲を見つけると、彼は嬉しそうに微笑んだ。 口元をほころばせ、雲をつかむように両手を伸ばして、輝くような笑顔を見せてくれた。
俺はそんなフミくんが好きで、ずっと一緒に居たいと思っていた。
琥珀色の目はとても綺麗で、緩んだ口元に色気を感じる。 細い体はシャツに包まれているけれど、今すぐ彼を裸にしたい。
オネショしたって問題ない。どんな過ちも、まったく気にする必要はない。
俺はフミくんと離れたくないだけなんだ。それ以外の事は、本当にどうだっていいんだ。

 空が夕日の色に染まると、俺たちはなんとなく無口になった。
足は自然と自宅の方へ向かっていた。本当は帰りたくなんかないのに、そうなってしまう事が悲しかった。
人気のない堤防沿いを歩く時、フミくんは伏し目がちだった。 それはきっと、まっすぐ行った所に例のラブホテルがあるのを知っているからだ。
2人の足音が、小さく響く。
もう少し歩くと、ホテルの入口が見えてくる。俺はその前に、なんとしても彼を口説きたいと思っていた。
「フミくん……」
立ち止まって呼び掛けると、彼も一緒に足を止めてくれた。 丸い頬は夕日に照らされて、ほんのり赤くなっていた。
「俺、帰りたくない。朝まで一緒に居よう」
茶色の髪が、音もなく風になびく。戸惑うような目をする彼も、やっぱりすごく好きだった。
「オバケが怖い?」
曖昧に微笑む彼を見て、小さな手を握り締めた。
少しでも肌に触れると、どうしても離れたくないという思いがどんどん膨らんでくる。
「大丈夫。何も怖くないよ。オネショして逃げちゃうんだから、あれは可愛いオバケだよ」
「……うん。そうだね」
「だから平気だよ。一緒に泊まろう」
口元を緩めて、フミくんが小さく頷いた。俺は彼の気が変わらないうちに、早くホテルへ行きたかった。
急ぎ足で前に進むと、彼も同じ速度で前進してくれた。2つの影が並んで歩くのを、穏やかな気持ちで眺めていた。

 ホテルの部屋は暖かかった。隅の方には花が飾られ、清潔な香りが部屋中に漂っている。
俺たちは、何も言わずに洋服を脱ぎ捨てた。
裸になったフミくんは無防備だった。なで肩で、あばら骨が浮き上がっていて、艶のある肌が輝いている。
ベッドで仰向けになった彼は、夕日が届かない場所でも薄っすら頬が赤かった。
乱れた髪が枕に散らばり、目は少し潤んでいる。緊張気味に唇を噛む様子が、俺にはとても愛しく思えた。
「可愛いな……」
見下ろす彼があまりにも素敵で、心の声が口から飛び出した。
どこが好きかと聞かれたら、きっと答えられない。好きになるのに、理由なんかない。
ただいつも2人で居たい。1人の時も、心の中には彼が居る。
理由は分からないけれど、フミくんじゃないとダメなんだ。他の人では、絶対にダメなんだ。
「何を考えてるの?」
細い腕が、首に巻き付いた。
琥珀色の目に光はない。覆いかぶさる俺の影が、目の光を消しているからだ。
それができるのは、自分だけであってほしい。今も、そしてこれからも。
「僕はいつも瞬くんの味方だよ」
「ありがとう」
「オネショしたって、構わないよ」
「……え?」
「全部オバケの仕業だから、瞬くんは気にしなくていいんだよ」
フミくんが薄く微笑んだ。それから強引に頭を引き寄せられ、すぐに唇を奪われた。
いつもより興奮気味に、舌が絡み付いてくる。俺はそれに付き合ったけれど、頭の中は混乱していた。
もう何がどうなっているのか分からない。余計な事は考えたくないのに、ここで起こる事はどうにも不可解だった。
オネショをしたのは、フミくんじゃなかったのか?
まったく身に覚えはないけれど、やったのは俺だったのか?
少なくとも、彼がそう思っているのは確かだった。今の言葉は真剣そのもので、俺を気遣ってくれているのが本当によく分かった。
オネショをしたつもりはないけれど、なんだか少し嬉しかった。
フミくんはあの日、俺がオネショをしたと思って庇ってくれたんだ。あんな下手な芝居を打って、俺に恥をかかせないようにしてくれたんだ。
たとえオネショが冤罪だとしても、フミくんの優しさに触れられて、心がすごく熱くなった。

 色気のある唇に何度も舌を吸われて、俺もだんだん興奮してきた。
もうどうでもいいや。オネショをしたのが誰だろうと、そんな事はどうでもいい。フミくんの言う通り、全部オバケがやった事にしてしまえばいい。
なんとなく背中が重く感じるのは、気のせいだろうか。足元が濡れているように思えるのも、やっぱり気のせいなのか。
そんな事は放っておいて、フミくんの硬い物に触れた。すると彼は体を震わせ、強い力で俺にしがみ付いてきた。
すべてを誰かに見られているような気がして、羞恥心がくすぐられる。
これからたっぷり時間をかけて、彼と愛し合いたい。できれば朝まで、彼を抱き締めていたい。
決して振り向いてはいけない。
ずっとフミくんだけを見つめていれば、何も怖くはないはずだ。
END

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