学級委員長の恋
 俺は昔から優等生と言われてきた。
自分ではそんなつもりはまったくないのに、たまたま勉強が得意なせいか、周りが勝手にそういうイメージを作り上げたんだ。
もしかすると銀縁メガネをかけているのも、それらしく見える原因の1つなのかもしれない。
とにかくそんなキャラクターに位置付けられているから、小学校の時は生徒会長を任された。そして中2になった今は、学級委員長をやらされている。
頭が良くて、生真面目で、清廉潔白な優等生。皆の俺の評価は、恐らくそんなものだろう。
男たちがエッチな話で盛り上がっていても、俺が近付くとその話は中断する。清く正しい学級委員長は、そんな話に一切興味がないと思われているからだ。
でも健康な男子である以上、決してそんな事はない。俺だって人並みに性欲はあるし、恋もする。

 学級委員長は、クラスで問題が起きる事を防がなければならない。生徒の誰もが楽しく過ごせるように、穏やかな雰囲気作りをしなければいけないんだ。
そのためにはよく周りを見て、皆に声を掛ける事が重要だと思っていた。
その上で勉強が苦手な人をサポートしたり、落ち込んでいる人を励ましたりする。自分としては、そういう事はわりとうまくやっているつもりだった。
だけどクラスでたった1人だけ、ほとんど声を掛けた事のない人がいる。
斜め前の席にいる、倉橋仁。彼とだけは、どうしても気軽に話す事ができなかった。
倉橋くんは、おとなしくて目立たない少年だった。そのせいか、あまり親しい友達はいないようだ。
休み時間になると、いつも1人で本を読んでいる。たまには人と話すけれど、彼の声を知らない生徒は、きっと大勢いるはずだ。
学級委員長の役割を果たすなら、そういう人にこそ積極的に声を掛けるべきだった。
それなのに、彼を目の前にすると緊張してしまう。挨拶ぐらいはしようと思っても、何故だか声が出てこない。
いったいどうしてそうなのか。今までに、何度もそれを考えた。
そしてその答えは、最近になってようやく分かった。


 国語の授業はけだるかった。新米教師が朗読を始めると、本格的に眠くなってきた。
春の日差しは温かくて、余計に眠りを誘っていた。教室の中にはウトウトしている生徒が何人もいたし、大きな欠伸をしている人も目に付いた。
4時間目の授業は、特にこんなふうになりがちだった。人間の集中力は、それほど長くは続かないようだ。
芝居がかった朗読を聞き流しつつ、斜め前の席に目をやった。
倉橋くんは、目を伏せていた。
艶のある髪は、少し茶色っぽく見える。真っ白な頬は丸みを帯びていて、時々髪にくすぐられている。
その時は、学ランの袖口を妙に気にしていた。きっとほつれているか、汚れが付いてしまったのだろう。
彼は清楚な雰囲気を持つ少年だった。つぶらな目と品のある佇まいに、俺は強く魅かれた。
本当は、倉橋くんともっと仲良くなりたい。でもそれが容易にできないのは、彼に恋しているからだ。
こうして見つめているだけで、胸が少し熱くなる。
まろやかな肩の流れ。スッと伸びた背筋。きちんと揃えた両足。どこを見ても美しくて、心臓がドキドキしてしまう。
彼の素肌に触れてみたい。柔らかそうな唇にキスしてみたい。
恋は人を狂わせる。不純な欲求がどんどん高まって、他には何も考えられなくなる。
頭の中が彼でいっぱいになっていた時、誰かがクシャミをして、ハッと我に返った。
余計な事を考えちゃダメだ。今は授業中なんだから、そっちに集中するべきだ。
俺は軽く頭を振って、何度か瞬きを繰り返した。それからなんとなく視線を下げると、すぐに大きな異変に気付いた。
倉橋くんの足下に、水たまりができていた。そこに日差しが反射して、強い光が放たれた。きちんと揃った両足は、確かに水に囲まれていた。
一瞬何が起こったのか分からず、思考が停止した。さっきまではなかった物が突然現れて、本当に訳が分からなかった。その間に隣の席の女子が声を上げて、ようやく状況を理解した。
「先生、倉橋くんがおしっこ漏らした」
それを聞いた皆は、一斉に彼に目を向けた。
教師の朗読がピタリと止まり、それと同時にあちこちから心ない言葉が飛んできた。
「イヤだ、本当に漏らしてる」
「床が濡れてるぞ」
「嘘でしょう? 信じられない」
そんな言葉に、笑い声が重なった。好奇の目に晒された倉橋くんは、ただ黙って俯いていた。こんな時でも、背筋は伸びたままだった。でもその背中は、小刻みに震えていた。
その時、今がチャンスだと思った。ここをうまく取り成せば、彼に接近できると思ったんだ。
「よせよ! 可哀想だろ!」
俺は優等生ぶりを発揮して、大きく叫んだ。学級委員長が一喝すると、教室の中がシーンと静まり返った。
それからすぐに立ち上がって、倉橋くんに近付いた。彼を連れて教室を出る時、温かな日差しを背中に感じた。

*   *   *

 2人で保健室へ行くと、白衣を着た保健の先生が俺たちを迎えてくれた。若い女の先生は、倉橋くんを一目見て事情を察知した。
「あそこにジャージが入ってるから、すぐに着替えなさい」
彼女の指差す方向を見ると、白いベッドの横にロッカーがあるのを発見した。
カーテンを引いてベッドを覆い隠し、ロッカーの中から藍色のジャージを取り出す。それを黙って手渡した時、倉橋くんは遠い目をしていた。
彼のズボンは大量の水を吸っているようだった。股の辺りが集中的に濡れていて、そこから水が滴り落ちそうな気配がした。
カーテンの内側で向き合った2人は、すぐには言葉を交わさなかった。何か言わなくてはいけないと思ったけれど、彼の前ではやっぱり声が出なかった。
仕方がないから、無言でベッドに腰掛けた。倉橋くんは、俺に背を向けて着替えを始めた。
すると、また心臓がドキドキしてきた。
最初に学ランの上着を脱ぐと、まろやかな肩のラインが一層際立って見えた。
思わず立ち上がって、背中を抱きしめたくなる。俺はその衝動を抑えるのに必死だった。
それなのに、誘惑はまだ続いた。
いよいよズボンが下ろされると、小さなお尻が露わになった。丸くて形の良い、きゅっと上がったお尻だ。
それはあまりに強烈で、急にあそこが反応し始めた。
白いベッドが眩しい。目の前のお尻は、俺をひどく興奮させている。
カーテンの向こうに先生がいなかったら、何をしでかすか分かったものじゃない。
日差しに照らされるベッドの上で、彼のすべてを奪いたい。小さなお尻を引き寄せて、彼の中に入ってみたい。
不純な欲求は膨らみ続け、長らく俺を苦しめた。すぐ側に好きな人がいるのに、手を出せないのがもどかしかった。

 欲望と闘っているうちに、倉橋くんは着替えを済ませた。その時は、やけにほっとした。
ジャージ姿の彼が、隣に腰掛けた。
俺はすぐに彼の気を引くような事を言いたいと思った。カーテンの向こうに先生がいるから、直接的な言葉はご法度だ。それでもどうにかして、2人が仲良くなるきっかけを掴みたかった。
だけど、うまい言葉が見つからない。このまま沈黙が続けば、きっと気まずくなってしまう。
俺はすごく焦っていた。好きな人の前では、まったく思い通りに振る舞えなかったからだ。
どうしよう。うまく話ができないなら、何か行動を起こしてみようか。
抱きしめるのは無理だとしても、手を握るぐらいなら大丈夫だろうか。
俺は探りを入れるようにして、彼の顔を覗き込んだ。するとその時、つぶらな目から透き通る涙が流れ落ちてきた。
丸みを帯びた頬が、一瞬にして濡れた。しゃくり上げて泣く彼を見て、胸がズシンと重くなった。

 彼の涙を確認した時、唐突に怒りが湧いてきた。それは他の誰でもなく、自分に対する怒りだった。
倉橋くんがおもらしした時、俺はそれをチャンスに変えようとした。これをきっかけに、彼に近付こうとしたんだ。
嘘っぱちな正義感を振りかざし、偉そうに皆を諌めておきながら、自分は彼の失敗を利用しようとした。すべてにおいて打算的で、人の事なんか全然考えていなかった。
本当にどこまで無神経なんだ。
倉橋くんがこんなに傷付いているのに、いったい何を考えていたんだろう。皆の前で恥ずかしい思いをして、辛くなるのは当然だったのに。
怒りと反省が心の中を埋め尽くし、それ以外の物は全部抜け落ちていった。
おとなしい彼は、授業中にトイレに行きたいなんて言えなかったのだろう。
学級委員長として、普段からもっと声を掛けておけば良かった。彼ともう少し親しくしていれば、あんな時でも俺に助けを求める事ができたのかもしれない。
「ごめんね……」
やっとの思いで絞り出したのは、そんな短い言葉だった。
震える肩を、そっと抱いた。何の邪念もなく、純粋に倉橋くんを慰めたかった。
俺にもたれ掛かって、彼は泣き続けた。透明な涙が枯れるまで、ずっとそのままでいたいと思った。
つぶらな目は真っ赤になっていた。濡れた頬は日差しに煌めいて、唇は微かに揺れている。
カーテンの向こうで、人影が動いた。気を利かせた先生が、保健室を出て行ったようだ。
それでももう良からぬ事を考えたりはしなかった。今は全力で、彼のサポートをしようと思っていた。


 しばらくすると、2人きりの保健室にチャイムが鳴り響いた。その頃倉橋くんは、やっと泣き止んだばかりだった。
並んで座るベッドのシーツに、少しシワが寄っている。俺はそれが、なんとなく嬉しかった。
「給食の時間だね。教室に戻ろうか」
俺はその時、彼にやっとまともに声を掛ける事ができた。頬に残った涙を袖口で拭き取ってあげると、温く湿った感触が手首に伝わってきた。
倉橋くんは、不安げな目で俺を見つめた。教室に戻ったら、また心ない言葉が浴びせられるのではないかと心配しているようだった。
「大丈夫。何も心配いらないよ。絶対大丈夫だから」
俺は力強くそう言った。クラスの皆を信じていたし、万が一不測の事態が起こっても、彼を守るつもりでいたからだ。
俺が皆を信じるように、彼にも俺を信じてほしかった。
どうやら本気の言葉は伝わるようだ。倉橋くんの目の表情は、それから少しずつ和らいでいった。

 2人で教室のドアの前に立った時、もう一度彼の目を見た。
つぶらな目はすっかりいつも通りだった。充血した様子はなくなっていて、普段と同じ清楚な少年の目に戻っていた。
「行くよ」
俺の言葉に、彼は頷いた。それから思い切ってドアを開けて、教室へ足を踏み入れた。
給食の準備はもう整っていた。皆の机にも、俺たちの机にも、牛乳と皿がきちんと並んでいた。既に席に着いている皆は、2人が戻るのを待っていてくれたようだ。
出て行った時と同じように、教室の中はシーンと静まり返っていた。春の日差しは、さっきよりもほんの少し緩やかだった。
ジャージ姿の倉橋くんは、ゆっくり歩いて斜め前の席に戻った。
俺はわざとギシギシ音を立てて、自分の机を動かした。それを強引に彼の席とくっつけて、座った途端に「いただきます」と言ってご飯を頬張った。
すると皆が一斉に給食に手を付けた。倉橋くんは、ゆったりとした手つきで牛乳パックを開けようとしていた。
そこいら中でお喋りが始まり、教室にいつもの給食時間の光景が広がった。
俺と倉橋くんはほとんど言葉を交わさなかったけれど、何度も何度も微笑み合った。
つぶらな目をした彼は、笑うとすごく可愛かった。その笑顔は、眩しい程に光り輝いていた。


 クラスの皆は、倉橋くんの失敗を二度と話題にしなかった。
俺はその事を、とても誇らしく思っていた。
誰もが楽しく過ごせるように、いつも皆に気を配ってきた事が、やっと報われたような気がしたからだ。
俺はそれから、毎日倉橋くんに声を掛ける事に決めた。そうやって、初めからもう一度恋をやり直そうと思ったんだ。
今日は彼が笑ってくれた。もうそれだけで十分だ。
明日は好きな本のタイトルを聞いてみよう。
その次は、休み時間に遊びに誘ってみよう。
皆と同じように声を掛けて、少しずつ近付いて、いつかは彼と仲良くなりたい。
その道のりは遠いかもしれないけれど、恋に近道など存在しない事を彼が教えてくれた。
学級委員長の恋は、今始まったばかりだ。
END

トップページ 小説目次