恋人同士の夜
 中学校へ入学して半年が過ぎた頃、僕に初めて恋人ができた。
それは一学年上の田宮先輩だった。先輩とは学校の生徒会で顔を合わせて、僕が彼に一目惚れしたのだった。
田宮先輩は素敵な人だ。
キラキラした目がとても綺麗で、口元はいつも微笑んでいる。
スタイルもいいし、流行りのパーカーがよく似合っていて、彼はどこから見てもかっこいい人だった。


 今日は彼との3回目のデートだった。
日曜日はいつも朝から2人で出かけて、映画を見たりゲームセンターで遊んだりした。
先輩と一緒にいるとすごく楽しくて、あっという間に夜になってしまう。 時間は常に一定の速度で進んでいるはずなのに、彼といる時だけは時計の針が高速で動いているような気がしてならなかった。
公園の遊歩道を歩いて帰る時、僕はいつも寂しい気持ちになった。 彼とは明日も学校で会えるのに、それでもやっぱり寂しかった。
「月明かりが綺麗だね」
僕の気持ちをよそに、先輩はそう言って夜空を見上げた。
遊歩道は小さな湖を囲うように長く続いていた。僕らの右側に湖があって、左側は深い林になっている。
「帰りたくない」
先輩のパーカーの袖を握って、小さくそうつぶやいた。ほんの一時でも、彼と離れるのが嫌だったからだ。
「またすぐ会えるよ」
そう言われても、僕の心は晴れなかった。 彼と会う時はワクワクするけれど、別れが近付くと常にブルーになってしまうのだ。
湖に映る月が、ずっと僕らを追いかけてきた。本当は僕が月になって、彼を家まで追いかけたいと思っていた。
「ちょっと待ってて。小便してくる」
先輩がそう言って、林の中へ入って行った。 僕は遊歩道に残されたけれど、心細くてすぐに彼の後を追いかけた。

 先輩は高い木の間をクネクネと歩き、林の奥へ向かっていた。 後ろを追いかけて来る足音に気付くと、彼はすぐに振り返った。
「待ってろって言っただろ?」
「だって、寂しいんだもん」
僕はそう言って先輩に駆け寄った。彼は苦笑いをして、また僕に背を向けた。
「じゃあ、そこにいて」
月明かりが途絶えたその場所で、先輩は用を足すつもりのようだった。目の前には大木があって、その根元に目がけておしっこをするつもりらしい。
「絶対見るなよ」
別に見るつもりはなかったけれど、彼に背を向けられているのが寂しかった。 だから静かに前進して、たくましい大木の横にそっと移動した。
「見るなって言ってるのに」
先輩は呆れ顔で僕を見つめながら、半分笑ってそう言った。その目はいつものようにキラキラしていた。
彼とはいつも一緒にトイレに行くから、こんなのは特別な事ではないはずだった。 それでも彼は、何故だか少し照れている様子だった。


 やがて彼がズボンのジッパーに手をかけた。すると、急に胸がドキドキしてきた。
それはトイレで見る光景とはまるで違っていた。普段は横から少し覗く程度だったのに、アングルが変わると僕の気持ちも変化した。
こんなふうに前から見るのは初めてで、もうすぐジッパーの奥から顔を出す物を、正面からじっくり観察したいという欲求が心の中で大きく膨らんでいった。
そんな僕は早く先輩がおしっこする所を見たいと思っていた。ところがそれは、なかなか始まらなかった。
ズボンのジッパーが、少し下りたところで急に止まった。途中で何かに引っかかったらしく、スムーズに開く事ができなかったのだ。
「あれ……?」
先輩は小さくそう言って、強引にジッパーを下げようとしていた。しかし銀色のジッパーは、上にも下にも行かなくなってしまった。
「おかしいな……」
更に言葉を続け、引き手の部分を持って必死に動かそうとする。それでも状況は改善せず、先輩の顔にだんだん焦りの色が見え始めた。
早くしないとまずい事になる。そう思ったけれど、僕にもどうしていいのか分からなかった。
その後も、先輩はしばらくジッパーと格闘していた。
動きを小さくして下げようとしたり、一旦深呼吸をしてもう一度チャレンジしたり。そんな事が、随分長く続いた。 しかしどうやってもジッパーは頑なに動こうとしなかった。
月明かりは遮断されていたけれど、焦っている先輩の顔に薄っすらと汗が浮かんでいるのが見えた。
そしてある時、最悪な事態が起こった。
頑なに動かないジッパーの下に、じわっとシミが広がったのだ。
その時僕は、見てはいけない物を見てしまったような気がしていた。それでも彼から目を逸らす事はできなかった。
ズボンのシミは徐々に広がりを見せた。それでも先輩は、まだがんばってジッパーを下ろそうとしていた。
その後ジャーッと音がして、彼の足元におしっこが流れ落ちてきた。その水は、ゆっくりと少しずつ地面に吸い込まれていった。
彼はジッパーを下ろすのを諦め、両手が力なくそこを離れた。
先輩は言葉も表情も失ってしまった。その時彼はただ俯いていた。
緩やかな風が吹いて、木の葉のざわめきが聞こえた。先輩の両手も、ブランと風に揺れたような気がした。
大地に吸収し切れなかった水が、僕の足元にまで流れてきた。先輩のズボンは濡れてしまったし、僕の靴もきっと濡れた。
僕は咄嗟に彼に近寄り、必死にジッパーを下げようとした。 何度も引き手を動かして、どうにかしようと試みた。
しばらくそれを続けると、ジッパーがシャツの裾を噛んでいるのが分かった。 僕は慎重にそれを解くように、シャツを引っ張りながらゆっくりと引き手を動かした。
彼の足元にはまだおしっこが流れ続けていたけれど、他に何をすればいいのか分からなかった。

 それから少し時間が経つと、おしっこの音が止んだ。
その頃やっと試みが成功し、頑なだったジッパーがすんなりと下りてくれた。
「やった! 直ったよ!」
僕はすごく嬉しくて、先輩に微笑みかけた。だけど彼は無反応で、目が合う事すらなかった。
水の音が止み、風の音も消えて、林の中に静寂が走った。 地面に流れ落ちた水は、もうほとんどが大地に吸い込まれていた。
「先輩……」
僕がパーカーの袖を握ると、彼はハッとしてズボンのジッパーを引き上げた。 それから僕の手を振り切って、さっさと遊歩道へ戻って行った。
「待って」
背中に小さく声をかけたけれど、その足は止まってはくれなかった。 僕は急いで先輩に追い付き、彼の少し後ろを歩いた。
遊歩道は、さっきと変わらず月明かりに照らされていた。湖に映る月も、同じように僕らを追いかけて来た。
先輩との別れはすぐそこまで迫っていた。 遊歩道を出ると僕の家が見えてきて、そこから2人は別な道を行く。
だけどこんなに気まずいままで別れるのは嫌だった。 このまま別れたら、明日の朝どんな顔をして先輩に会えばいいのか分からない。
かといって、今の彼にかける言葉が見つからなかった。
だんだん早足になる先輩は、僕との別れを急いでいるようで、すごく胸が苦しくなった。


 そのまま黙って歩き続けると、前方に2人の男女の姿が見えてきた。
すると先輩は、突然ピタリと立ち止まった。月は雲の陰に隠れる事もなく、辺りを薄く照らしていた。
女の人の笑い声が、風に乗って聞こえてきた。きっと間もなく、僕たちはすれ違う。
先輩のズボンには、シミが色濃く残されていた。それを目の当たりにすれば、彼に何が起こったかは一目瞭然だった。
僕はサッと上着を脱いで、それを先輩の手に握らせた。
彼は何も言わずにそれを受け取り、ズボンのシミを隠すように手に持って歩き出した。
2人の男女とは、その後すぐにすれ違った。彼らは何も気付かず、楽しそうに笑いながら僕らの横を通り抜けて行った。
目の輝きを失い、まったく僕を見ず、笑う事も一切ない。
僕はそんな先輩とこのまま別れるのが絶対に嫌だった。だからパーカーの袖を強く握り、彼をグイグイ引っ張って歩いた。
「僕の家に寄って。着替えを貸してあげる」
田宮先輩は相変わらず無口で、前を歩く僕に黙って引っ張られていた。
この時僕はドキドキしていた。
自分の部屋で彼と2人きりになる事を考えると、興奮せざるを得なかった。

*   *   *

 家には誰もいなかった。僕は自分の鍵を使って、素早く玄関のドアを開けた。
それからパーカーの袖を決して離さずに、階段を上って自分の部屋へ先輩を導いた。
その時部屋の中は真っ暗だった。僕は月の光と同じ程度に薄く照明を灯した。
先輩は部屋の隅に立って俯いていた。もう隠す必要はないのに、まだ上着でおもらしの跡を覆っていた。
僕はすぐにタンスの中からズボンを取り出して、それを彼に渡した。
そのズボンは僕にはサイズが大きすぎて、一度も身に着けた事がなかった。先輩は僕より少し背が高いから、彼にはちょうどいいサイズだと思っていた。
「着替えてきて。トイレは階段のすぐ下だよ」
薄明かりの下で、僕はそっと微笑んだ。
先輩は僕の上着を床に投げ出し、ドアから廊下へ出て行った。
彼の足音が遠のいて行くのを、窓の側で聞いていた。 厚いカーテンを引いて窓を覆い、上着をハンガーに掛けると、やっと少し気持ちが落ち着いてきた。
「はぁ……」
一息ついて、ベッドに腰掛けた。すると今度は、先輩が戻ってきた時の事を想像した。
着替えが終われば、彼もきっと気持ちが落ち着くはずだ。 その時目の前に僕がいる。そんな状況が出来上がった時、先輩はいったい何をするだろう。
僕たちは、付き合い始めて1ヶ月になろうとしていた。
学校では毎日会う事ができたし、放課後一緒に帰る事もできる。そして日曜日は、いつも映画やゲームに明け暮れた。でもそれは、全部友達とやる事と一緒だった。
僕と彼は、恋人同士なのだ。
だからそろそろ、友達とは違う事をしてみたかった。
そして今夜は、そのチャンスだと思っていた。 誰もいない家で2人きりになれたのだから、恋人としかしない事を、先輩と体験してみたいと思っていた。

 そんな不埒な想像をしていた時、着替えを終えた先輩が部屋に戻って来た。
僕はドキドキしながら立ち上がり、にっこり笑って彼を見つめた。
その時彼はもう俯いたりはしなかった。だけど一切微笑む事もなく、鬼の形相で僕に言った。
「お前、今夜の事絶対誰にも喋るなよ」
いつもは穏やかな彼が、その時だけは別人のように思えた。
僕はそんなふうに言われて、すごくショックだった。 戻って来て最初の一言がそれだったから、あまりにも悲しくて思わず泣いてしまった。
2人の気持ちがこれほどすれ違っていたなんて思いもしなかった。
僕は先輩との甘いひと時を夢見ていたのに、彼は同じ時にまったく別の事を考えていたのだ。
恋人同士の間で起きた事は、2人だけの秘密に決まっている。 彼がおもらししてしまった事を、僕がベラベラ喋るわけがない。
そんなのは当たり前の事なのに、それを分かってもらえていない事がとても悲しかった。
「僕は誰にも喋らないよ。そんな事、するわけないのに……」
立っているのが辛くなり、床の上に座り込んだ。膝を抱えて俯いて、さめざめと泣いた。
ポタポタと零れ落ちる涙は、一粒ずつゆっくりとカーペットに吸い込まれていった。
滲む視界の隅には、靴下を履いた先輩の両足がぼんやりと映し出されていた。
僕は俯いたままじっとしていた。それは、先輩に泣き顔を見られたくなかったからだ。

 肩を震わせて泣いていると、近くに黒い影が散らついた。その後先輩が僕の側に座る気配を感じた。
「どうしてお前が泣くんだよ。泣きたいのはこっちの方だよ。 お前にあんな恥ずかしい所を見られるなんて、もう死にたいよ」
それは今にも泣き出しそうな声だった。
そう言われて顔を上げた時、先輩がパーカーの袖で目を覆った。僕と同じように、その肩は震えていた。
「でも、一緒にいたのがお前で良かった。友達にあんな所を見られたら、絶対笑われたと思うから……」
滲んだ視界に、頬を濡らす先輩の姿が映った。
2人で涙を流した時、僕らのすれ違いが錯覚である事を知った。
僕が泣き顔を見られたくないように、先輩も僕にあんな所を見られたくなかったのだ。
それでいて、僕が一緒で良かったと言ってくれた。それはとても嬉しい言葉だった。
きっと、恥ずかしい所を見せ合えるのが恋人同士なんだと思った。 いずれはベッドの上で、それが証明されるはずだ。
静かに手を伸ばして、彼のパーカーの袖をぎゅっと握った。 すると指先に、少しだけ湿った感触が伝わってきた。彼の涙は、やがてすべてが袖口に吸い込まれていくだろう。
「先輩は、どんな時でもかっこいいよ」
僕は心からそう思っていた。
隣で笑っている時も、こうして泣いている時も、彼を愛さずにはいられなかった。 林の中で晒した姿さえも、魅力的に思えてならなかった。

 田宮先輩が、やっと僕を見てくれた。
彼のキラキラした目はまだ潤んでいた。でも口元は、いつものように微笑んでいた。
月明かりに似た光の下で、僕たちは見つめ合った。そしてどちらからともなく自然に顔を近付けた。
乾いた唇が重なり合った時、今までにないほどドキドキした。 高速で脈打つ心臓の動きは、恐らく先輩にも伝わっていただろう。
きつく抱きしめてもらうと、新たな興奮が湧き上がってきた。
今夜僕は、すべてを先輩に捧げたい。
「もう少しここにいて。キスだけじゃ物足りないよ」
僕を抱きしめる先輩の手に、更に力が入った。熱い耳に唇を寄せると、彼が小さく息を呑んだ。
こんな事は、友達とは絶対にやらない。
僕らはこうして、やっと本物の恋人同士になれたのだった。
END

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