この世で1番悪いヤツ
 今日、兄貴がオネショした。
朝。目覚まし時計が鳴り出す直前。僕は掛けぶとんが引っ張られる気配を感じてゆっくり目を開けた。
するともうその時隣の枕に兄貴の姿はなく、白い枕の真ん中は頭の形にへこんでいた。
兄貴はもうその時、ベッドの上に起き上がっていたんだ。
白いパジャマを着たその背中には、朝の日差しが降り注がれていた。
「兄貴、おはよう」
僕は勢いよく掛けぶとんを蹴って兄貴の背中に抱きついた。
そして彼の肩越しに僕が見たものは、びっしょり濡れたパジャマのズボンとブルーのシーツに描かれた大きな地図だった。
彼は腰のあたりまで掛けぶとんを引っ張って、濡れたパジャマを隠してしまった。
僕はその時、兄貴の頬がパジャマと同じぐらい濡れている事にやっと気が付いた。
「兄貴、泣かないで」
兄貴は、僕の声なんか耳に入っていないようだった。
彼の両手は白いふとんカバーの端をきつく握り締めていて、兄貴の目は涙を流す事をやめなかった。
僕はパジャマの袖口で兄貴の涙を拭き取り、彼の背中に額を押し付けていつも口にしているセリフを小さくつぶやいた。
「さとるは兄貴が大好きだよ」

 兄貴は僕の部屋を出て行く時、一度も振り向かずに 「ごめんな」 と一言だけ言った。
いつもは大きくて頼りになる兄貴の背中が、今朝はとても小さく見えた。
僕はベッドの上に座ったまま、ドアを開けて出て行く兄貴の背中を見送った。
1人になった後彼が描いた地図にそっと触れると、冷たい水が僕の手を湿らせた。
僕はベッドのすぐ横にある窓へ近づき、レースのカーテンを開けて明るい朝の太陽を見上げた。
太陽の光はブルーのシーツにさんさんと降り注がれ、僕はきっとこの太陽が濡れたシーツを乾かしてくれると信じていた。

*   *   *

 僕はその日の放課後、本屋へ寄ってマンガを立ち読みした後帰宅した。
もうその時には、兄貴がオネショした事なんかすっかり忘れていた。
「ただいまぁ……」
玄関へ入るといつものようにボソッとそうつぶやき、僕はすぐに階段を上がって自分の部屋へ行こうとした。
するとその時階段の横のドアがスッと開いて、リビングから母さんが顔を出した。
「さとる、ちょっと来なさい」
僕は母さんに呼ばれ、めんどくさいなと思いつつもリビングへ足を踏み入れた。
母さんは洗濯物を取り込んだ後のようで、リビングの床の上には乾いた洋服が山のように積まれていた。
母さんは僕の目を見ず、床の上に正座して乾いた洗濯物をたたみながら呆れた口調でこう言った。
「あんた、今日オネショしたでしょう?」
僕は床の上に立ち尽くし、軽くウェーブされた母さんの短い髪を見下ろしながらその言葉を聞いた。
そして今日の朝の事を思い出し、ふとベランダの向こうを見つめると、物干し竿の上にふとんが干されているのが分かった。
ふとんの柄は、グレーのストライプ。それは間違いなくいつも僕が使っているふとんだった。
少し低い位置にある夕方の太陽が、僕のふとんと庭の芝生を照らしていた。

 「あんた、いったいいくつだと思ってるの?」
母さんはすべての洗濯物をたたみ終え、僕の顔を見上げてそう言った。
母さんの目は明らかに僕をバカにしていて、そのだらしない唇から次々と心ない言葉が飛び出した。
「中学2年にもなってオネショするなんて、恥ずかしいと思わないの?」
僕は自分を睨み付ける母さんをじっと睨み返した。
「濡れたパジャマはどこへ隠したの? 早く出しなさい」
その時頭の中が急にカッと熱くなり、首の後ろを一筋の汗が流れ落ちていった。
「黙ってないでなんとか言いなさい!」
僕は感情的な母さんの物言いに強い憤りを覚えた。 母さんは僕が短気な事を知っているくせに、まるでわざと僕を怒らせようとしているみたいだった。
「……僕じゃない」
「え?」
「僕はオネショなんかしてない」
僕が短気なのは、母さんの血だ。母さんは僕の言い草にますます腹を立てたようで、またきつい言葉を僕に浴びせかけた。
「嘘ばかり言うんじゃないわよ。あんたの他に誰がいるっていうの? 少しは反省しなさい!」
僕はその時、とても悔しくて目から涙が溢れた。
自分は何も悪い事なんかしていないのに、どうしてこんなひどい事を言われなければならないのか全然分からなかった。
だけど母さんに本当の事なんか言えやしない。
僕と兄貴が半年前から一緒に寝ている事も、オネショしたのが兄貴だっていう事も、口が裂けても言えないと思った。
母さんは、ポロポロと涙を流す僕を本当に呆れたような目で見つめていた。 ベランダの向こうからは、まだ乾ききっていないふとんが僕を静かに見つめていた。
そして電源の入っていないテレビのブラウン管には半袖の白いワイシャツを着た自分自身が映し出され、僕は泣きべそかいている自分と目が合った。

 その時、僕の背後でリビングのドアが開いた。
僕は外側からドアが開く様子をブラウン管越しに見つめていた。
「ただいま」
灰色のブラウン管に、僕とよく似た白いワイシャツ姿の兄貴が映し出された。
僕はその時ひどく心が乱れ、急に動悸が激しくなった。
兄貴は、僕が泣いている事にすぐ気が付いた。そして母さんが不機嫌な事にも、すぐに気が付いた。
「どうしたの?」
兄貴が僕らの顔を見てそう言うと、また母さんが調子よくペラペラと喋り始めた。僕はこうなる事が、死ぬほど怖かったんだ。
「ちょっと聞いてよ。さとるったら、オネショしたのよ。それなのに謝りもしないし、全然反省してる様子がないの。 この子はどうしてこうなのかしら。中学生にもなって、恥ずかしいと思わない? お兄ちゃんからも少し言ってやってよ」
だめ。だめだよ。オネショしたのは本当は兄貴なんだから。
兄貴は高校生なんだよ。そんな事言ったら、兄貴が傷つくよ。
僕は心の中でそう叫び続けた。だけどその声は届かず、母さんはまだ喋る事をやめようとはしなかった。
「いつも生意気な事ばかり言ってるくせに、この子はまだまだ子供なのよ」
僕は、ハラハラしながらブラウン管越しに兄貴を見つめていた。
兄貴は両手の拳を握り締め、眉間に皺を寄せて母さんを見下ろしていた。
そしてその後、兄貴が口を開いた。僕が本当に怖かったのはこの瞬間だった。
「母さん……オネショしたのは俺だよ」
僕はどうしようもなく動機が激しくなり、その場に倒れてしまいそうだった。
「さとるは悪くない。全部俺がいけないんだ」
もうその時は母さんがどんな顔をして兄貴の話を聞いていたのかさえよく分からなかった。 だけど、僕の背後で話し続ける兄貴の声だけはちゃんと耳に響いていた。
「……違うよ! あれは僕がやったんだ! 兄貴は全然関係ない。あれは僕がやったんだよ!」
僕はその場の空気に耐えられず、それだけ叫ぶとリビングを飛び出した。
もう息が苦しくて、動悸が激しくて、体中にいっぱい変な汗をかいていた。

 僕は目の奥から溢れ出す涙を拭う事もせず、階段を上って自分の部屋へ逃げ込んだ。
僕の部屋は、綺麗に掃除されていた。それは母さんが片付けたに違いなかった。
カーペットの上にはゴミ1つ落ちていなかったし、床の上に散乱していたマンガの本はちゃんと本棚に収められていた。 それに、窓ガラスもピカピカに光っていた。そしてベッドの上には、薄いベージュのシーツがピンと張られていた。
「さとる、入るよ」
背後でドアがノックされ、僕は慌てて頬に流れ落ちる涙を手で拭った。 それでも涙は止まらなかった。拭いても拭いても涙は止まらなかった。
スッとドアの開く音がして、振り返るともうすぐそこに兄貴が立っていた。
彼は今朝と違って、いつも通りの沈着冷静な兄貴に戻っていた。
僕を見つめる目はとても優しくて、口元はわずかに微笑んでいて、今朝と違って真っ白な頬に涙はなかった。
「どうしてあんな事言ったの? どうして?」
僕は泣きじゃくりながら兄貴の胸を拳で何度も叩きつけた。僕はその時相当興奮していて、きっと血圧も上がっていた。
「あんな事言って僕が喜ぶとでも思ったの? どうして僕のせいにしておいてくれなかったの? どうして僕がやった事にしてくれなかったの?」
僕はもうとても冷静に話ができる状態ではなく、息が詰まって呼吸が苦しかった。だけどこんな時でも、冷静な兄貴はちゃんと僕をしっかり支えてくれた。
兄貴の胸に顔を埋めると、不思議とほっとする。それでもまだ涙を止める事はできなかった。
「さとる、もう泣くなよ」
兄貴は僕を抱きしめながら小さくそう言った。兄貴の胸には僕がすっぽり入って、たくましい両腕で抱きしめられると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
彼は僕が泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれていた。 さっきまであんなに興奮していたのに、こうしてもらうとどうして涙が止まるんだろう。
「さとる、顔上げて。キスしたいんだ」
しばらくすると、僕を抱きしめる兄貴の腕から少し力が抜けた。
恐る恐る顔を上げると、すぐそこに笑顔があった。キラキラした目がとても優しくて、頬がふっくらしている兄貴の笑顔が。
僕がゆっくり目をつぶると、兄貴の温かい唇が僕の口を塞いだ。
やっと気持ちが落ち着いたのに、兄貴にキスをされるとまた動悸が激しくなってしまう。

 「さとる、誤解するなよ」
兄貴はキスを終えると、真剣な目で僕に語りかけた。
夕方の日差しが彼を照らし、彼の背後のドアに兄貴の影が映し出されていた。
「どっちがやったかなんて関係ない。俺はお前がやったとしても母さんに同じ事を言ったと思う」
「……どうして?」
母さんの言うように僕はまだ子供だから、兄貴の言っている事がよく理解できなかった。
ただ日が当たってキラキラ光る兄貴の目があまりにも綺麗で、僕はその目に見とれていた。
「俺はお前が好きなんだ。俺はいつでもお前の味方だよ。世界中の皆がお前を悪い子だと言っても、俺だけは絶対にお前の味方だ。 母さんが何を言っても、俺だけはお前の味方だ。だから、何があってもお前をかばってやるよ。俺にとっては、お前を泣かせるヤツが1番悪いヤツなんだよ」
キラキラした目で見つめられ、そんな優しい言葉をもらうと、また胸が苦しくなって目から涙が溢れた。
兄貴はこの世で1番悪いヤツだ。だって、彼は僕を泣かせてばかりいる。
でも、この涙を止めてくれるのはいつも兄貴だった。兄貴は僕の涙を止める方法を知っている。
彼はもう一度僕を強く抱きしめ、優しいキスをしてくれた。すると僕の涙は、すぐにピタッと止まるんだ。

 僕らが愛を確かめ合っていると、遠くの方から階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
それはきっと、母さんの足音だ。
でも兄貴は後ろ手にドアの鍵をカチャッと閉めて、まだキスを続けてくれた。
その後、兄貴の後ろでドアがコンコンとノックされた。
でも、もちろん返事はない。それは僕らの口が塞がっているからだ。
廊下に立つ母さんには、薄いドアの向こうで僕らが抱き合っている事など想像もつかないだろう。
「さとる、もういいから下りてらっしゃい。ご飯を食べたら、ゆっくりお風呂に入りなさい」
母さんはそれだけ言うと、またゆっくりと階段を下りていった。
僕と兄貴はきっとこの後急いで夕食を済ませ、2人きりでゆっくりお風呂に入るだろう。
そして僕らは、今夜も手を繋いで一緒に眠るだろう。
END

トップページ 小説目次