モニター募集中
 これ、欲しいなぁ。
夏休みが中盤に入ったある朝。この時僕は、靴屋のウインドーをじっと覗き込んでいた。
厚いガラスの向こうには、ピカピカに光る靴が置いてあった。質のいい革で作られた、真っ黒なローファーだ。
僕は何度かママにその靴をおねだりしていた。でも値段が高すぎるという理由で、結局買ってもらえずにいた。
「それ、欲しいの?」
真っ黒な靴に見とれていると、突然背中の後ろからそんな声が聞こえてきた。
そして僕は、ガラス越しに声の主と目が合った。
彼は僕よりずっと大人に見えた。目が細くて、顎が尖っていて、まっすぐな髪が風になびいている。
僕と目が合った瞬間に、その人がにっこりと微笑んだ。
彼は笑うと目がなくなった。その笑顔がとても優しげで、少し胸がキュンとした。
「その靴、買ってあげてもいいよ」
「本当?」
反射的に振り向くと、彼が大きくうなずいた。
「そのかわり、ちょっと仕事を手伝ってね」
優しい笑顔をそっと見上げて、僕も大きくうなずいた。

 彼はそれから、僕を近くの公園へ案内した。
今年は猛暑で、少し歩くと額に汗が浮かんだ。
朝の公園には、小さな子供が大勢いた。 ブランコやジャングルジムの横を通り過ぎると、そのたびに彼らの笑い声が耳に響いた。
「暑いね」
彼はそう言って、シャツのボタンを1つ開けた。
公園のトイレに連れ込まれそうになった時、僕は初めて不安を覚えた。
「これからどうするの?」
トイレの前で足を止め、彼に説明を求めた。その時僕は、1枚の名刺を受け取った。
「俺は怪しい者じゃないよ。単なる製薬会社の社員だ」
研究員 三浦大二郎
名刺には彼の名前が書いてあった。そして確かに、製薬会社の社名も載っていた。
「もしも俺に変な事をされたら、そこに連絡して文句を言えばいい。俺は新入社員だから、あっさりクビになると思うよ」
三浦さんの笑顔には、嘘がないように思えた。彼はとても気さくな印象だったし、悪い事をする人には見えなかったんだ。
「しばらく俺に付き合ってくれたら、ちゃんとあの靴を買ってあげるよ。ほら、指切りしよう」
目の前に小指を突き出された時、迷わず指切りに参加した。
どうしてもあの靴が欲しかったし、もう少し彼と一緒にいたかったからだ。

 それから僕たちは、2人一緒にトイレの個室へ入った。
三浦さんは僕の姿をじっと眺め、いくつか質問をしてきた。
「君は中学生?」
「うん。2年生」
「じゃあ14歳だね?」
「先月14歳になったばかり」
「身長は?」
「168センチ」
「大きな病気をした事はある?」
「ないよ」
「そうか、分かった」
三浦さんは、持っていたスポーツバッグの中に手を入れてゴソゴソやっていた。
僕は壁に寄り掛かって、ただぼんやりとその様子を見つめていた。
「じゃあ、リラックスしてね」
彼が笑顔で目の前にしゃがみ込んだ時、僕もそっと笑顔を返した。
しかしその後の急展開には、本当に度肝を抜かれてしまった。

 三浦さんの手はとても温かかった。その手が腰に触れたかと思うと、いきなりズボンを下ろされた。
裸になった下半身を、彼の目がじっと見つめる。
僕はすぐにズボンを上げようとしたけれど、慌てていたせいかうまくいかなかった。
「嫌だ。僕に何をするつもりなの?」
仕方がないので、両手で前を隠した。僕はかなり動揺していて、その声は上ずっていた。
三浦さんは笑顔を絶やさなかった。その声は、僕と違って随分落ち着いていた。
「隠さなくていいだろ? 男同士なんだから」
「そういう問題じゃなくて……」
「俺は今、商品開発部にいるんだ。君には紙オムツのモニターになってほしいんだよ」
紙オムツ。
その単語を聞いた途端に、今すぐここから逃げ出したいと思った。
でもどうしても動き出せなかった。想像もできなかった展開に驚いて、体がうまく動かなかったんだ。
「俺は新しい紙オムツの開発を担当してるんだよ。着け心地とか、おしっこした時の濡れ具合とか、いろいろ感想を聞かせてくれないかな?」
公園の中には、小さな子供が大勢いた。僕は彼らよりずっと年上なのに、オムツを着けろと迫られたのだった。
いくら靴が欲しくても、そんな恥ずかしい事は絶対にできない。僕は両手で前を隠したまま、ブンブンと二度大きく首を振った。
するとその時、三浦さんの笑顔が失われた。彼は小さくため息をついて、俯いてしまった。
「そうか。やっぱりダメだよね」
見下ろすと、彼のまっすぐな髪が揺れていた。 ボタンを開けたシャツの隙間から、少しだけ胸が見えてドキドキしてしまった。
公園のトイレはとても暑くて、全身にじわっと汗が浮かんできた。でもその汗の原因は、暑さだけではないような気がしていた。

 三浦さんは、気を取り直したように口元だけで微笑んだ。 少し寂しそうなその笑顔を見て、胸がチクッと痛んだ。
彼に付き合う事を決めて指切りまでしたのに、その約束を破ろうとしてがっかりさせてしまった。 それが分かると、後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「君が嫌なら仕方ない。他の子にお願いするよ」
彼はそう言って立ち上がろうとした。
僕はその時、他の子という言葉が妙に引っかかった。
彼が自分じゃない誰かにオムツを装着するのかと思うと、心が穏やかではいられなくなった。 それがどんな子になるかも分からないのに、僕はその子に嫉妬した。
「僕、やってもいいよ」
次の瞬間、思わずそんな言葉を口走っていた。僕は見知らぬ誰かへの嫉妬を止められず、もうやるしかないと思ってしまったのだった。
今にも立ち上がろうとしていた三浦さんが、その動作を止めて僕をじっと見つめた。
「本当にいいの?」
「うん。早くしてね」
それだけ言うと、前を隠していた両手を背中の後ろに回した。 気が変わらないうちにさっさとやってくれないと、また迷いが生じると思って彼を急かしてしまった。

 そこからの事は、まるで幻想の世界に思えた。
初めて会った人に下半身をさらけ出し、紙オムツを着けられるなんて、漫画の世界でもなかなかない展開だ。
三浦さんはスポーツバッグの中から真っ白な紙オムツを取り出して、優しく丁寧に装着してくれた。 最初にお尻を包み込んで、それから前の方に被せて、左右をテープで止めてくれたんだ。
丸出しの下半身が隠されたのにはほっとしたけれど、オムツをした姿を晒している自分がすごく恥ずかしく思えた。
だけど紙オムツの着け心地は最高だった。柔らかな空気に包まれているような、なんとも言えない安心感があった。
三浦さんは紙オムツを装着すると、すぐにズボンを上げて僕の身なりを整えてくれた。
その作業を終えた時、彼は顔中に汗をかいていた。


 トイレを出た僕たちは、公園のベンチに座って時を過ごした。外の空気は熱かったけれど、木陰のベンチは涼しかった。
「着け心地はどう?」
顔の汗を右手で拭いながら、三浦さんが質問を投げかけてきた。彼の目は真剣そのものだったから、僕もちゃんと真面目に返事をした。
「すごくいいよ。フワフワしてて、肌に優しい感じ」
「通気性は良さそう?」
「うん。全然暑くないし、快適だよ」
「そうか。良かった。何か気付いた事があったら教えてね」
「うん!」
三浦さんが優しげに微笑んでいたので、すごくほっとした。最初はどうなる事かと思ったけれど、彼の仕事に協力できる自分が誇らしかった。
遠くの方でブランコが揺れていた。強い日差しが地面を照らし、時々温い風が吹いてきた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」
そう言われるまで、名乗るのをすっかり忘れていた。突然幻想的な世界に飛び込んでしまったから、初対面の人に対する手順がすっかり抜け落ちていた。
「僕は、高原秋。夏生まれなのに秋っていうんだ」
「夏生まれの秋か。面白いね」
「自己紹介をする時は、いつもそう言うんだ」
「秋くん、よろしくね」
「三浦さんも、よろしくね」
2人が笑顔で見つめ合った時、彼とは友達になれそうな予感がした。
三浦さんは、僕の話をなんでも真剣に聞いてくれた。
数学が苦手で困っている事。ゲームに夢中になって夜更かししがちな事。そして、僕の持っている夢の話。
「僕ね、漫画家になりたいんだ」
「どんなのを描いてるの?」
「学園ものとか、他にもいろいろ。でも漫画を描いてるのをママに見つかると怒られちゃうんだ」
「お母さんは反対してるの?」
「うん。そんな事より勉強しなさいって、いつも言われてる」
「勉強も大事だけど、夢を持つ事も大事だと思うよ」
「本当にそう思う?」
「だって、勉強ばかりじゃ疲れちゃうよ」
「そうだよね! 勉強もするけど、漫画も描いていいよね?」
「うん。夢を追いかけるのは、悪い事じゃないよ」
優しい笑顔でそう言ってくれた時、この人が好きだと思った。
三浦さんは、僕の夢を肯定してくれた初めての人だった。
僕はそれが嬉しくて、本当に嬉しくて、もっともっと彼と話したいと思っていた。
「今度俺を秋くんの漫画に登場させてよ」
「いいよ!」
彼の言葉に即答した。
きっと三浦さんは、軽い気持ちでそんな事を言ったのだろう。だけど僕はワクワクして、すぐに頭の中で構想を練った。
漫画の中では、何にだってなれる。僕の描く漫画は、いつだって自分が主人公だった。 そこに三浦さんが加わったら、彼の恋人にだってなれる。
それもまた幻想にすぎないけれど、そんな事を想像しただけで、胸がドキドキしてしまう僕だった。

 僕は三浦さんと、ずっと話していたかった。
でもその時は、否応なく訪れた。彼と長い間話しているうちに、おしっこがしたくなってきたのだった。
僕がオムツを濡らしたら、その感想を述べてモニターは終了する。そうしたら、三浦さんは帰ってしまう。
それが分かっていたから、必死に尿意を堪えた。
だけど僕がそうしている事はすぐにバレてしまった。何食わぬ顔をしておしっこを我慢しているつもりだったのに、ソワソワしているのが分かってしまったらしい。
「おしっこ出そう?」
小さな声でそう聞かれた時には、もう我慢するのが難しくなっていた。 足を揺らしたり、なんとかして気を逸らそうとしても、尿意が遠のく事はなかった。
「我慢しなくていいんだよ。オムツが全部吸収してくれるから、安心して」
そう言われても、やっぱりオムツを濡らす事には抵抗があった。 三浦さんが帰ってしまうのも嫌だったし、外でおもらしする事に戸惑いがあったんだ。
「座ったままで平気だから。早く楽になって、感想を聞かせて」
恋人に愛を囁くかのように、彼がそう言った。
真夏の空には、真っ白な雲が浮かんでいた。日差しがとても眩しくて、薄く目を閉じた。
大きな戸惑いはあったものの、これ以上我慢ができなくて、僕は遂におもらししてしまった。
満タンになった膀胱からぬるま湯のような水が溢れ出て、オムツの中が熱くなる。
最初は勢いよく、途中からはじわじわと、抑揚を付けながらおもらしをした。自分でコントロールしたわけではなかったけれど、自然の成り行きに任せるとそうなったんだ。
僕がどれだけおしっこを出しても、オムツは優しく受け止めてくれた。
吸収するのが早いせいか、おしっこの音は全然聞こえてこなかった。 悪びれる事なくオムツを濡らすと、赤ちゃんに戻ったような気分になった。
三浦さんが言ったように、我慢を解いておしっこを放つと、体がすごく楽になった。
その行為は快感としか言いようがなかった。
暑くてたまらない日に、エアコンの風を浴びた時。もしくは夢うつつのまま、二度寝をする時。 我慢の後のおもらしは、それによく似ていた。
ゆっくり目を開けると、すぐ側を駆け抜けて行く5歳ぐらいの男の子が見えた。 その子が友達の群れに紛れ込むと、甲高い笑い声が辺りに響いた。
彼らは公園でおもらしした中学生を笑っているのかと思ったけれど、もちろんそうではなかった。
僕が今何をしているのか、子供たちは知らない。知っているのは、僕と三浦さんだけだった。
それはまるで秘密のお遊びみたいだと思った。
紙オムツを装着して、人がいっぱいの公園でおもらしする行為に、僕は密かな興奮を覚えていた。

 たっぷり放尿を終えると、オムツの中の熱が急激に失われていった。 三浦さんのオムツは優秀で、おもらしした後でも濡れた感触はまったくなかった。
「どんな感じ?」
放尿を終えた僕に、三浦さんが問いかけてきた。 その表情は、少し緊張しているように見えた。
「いっぱい漏らしたのに、全部吸収されたみたい。濡れた感触はないよ。熱くもないし、重くもない」
「気持ち悪くない?」
「全然気持ち悪くない。ずっとこのままでも平気だと思う」
「そうか。率直な感想が聞けて良かったよ。どうもありがとう」
三浦さんがにっこり微笑むと、やっぱり目がなくなった。僕は優しげな彼に、すっかり心を奪われていた。

 その後僕らは、再びトイレの個室に向かった。
三浦さんは淡々とした様子で僕のズボンを下ろし、水を吸った紙オムツを回収した。
オムツが剥ぎ取られると、また下半身が丸出しになった。慣れてしまったわけではないけれど、もう両手で前を隠すような事はしなかった。
すぐにズボンを上げてもらうと、そこで役割が終わった事を自覚した。
その時三浦さんに笑顔はなく、まったくの無表情だった。


 それから僕は、約束通りに靴を買ってもらった。ずっと欲しかった黒のローファーを、遂に手に入れたんだ。
靴屋を出て外を歩く時、右手に持つ紙袋の中を何度も覗き込んだ。 そこに入っているピカピカな靴を見るたびに、嬉しさと悲しみが両方込み上げてきた。
靴を買ってもらった事は嬉しかったけれど、仕事の報酬を受け取ったら、あとは解散するしかない。 もう少しで2人の時間が終わってしまうと思うと、悲しくて堪らなかったんだ。
「ありがとう、三浦さん」
「お礼なんていらないよ」
商店街を歩きながら、そんな短い会話を交わした。その時僕たちは、同じように微笑んでいた。
やがて車の少ない交差点で、三浦さんがお別れをする仕草を見せた。 彼は突然立ち止まり、僕の頭を少し撫でて、今にもサヨナラと言い出しそうな雰囲気だった。
「秋くん、どうもありがとう」
その後に続く言葉は聞きたくなかった。どうしても三浦さんとの接点を失いたくなかったんだ。
とにかくなんとかして彼との繋がりを保ちたかった。だから僕は、こんな提案をした。
「僕、明日もやるよ」
「え?」
「だって、こんなに高い靴を買ってくれたんだもん。だから明日も仕事を手伝うよ」
その提案を受けて、彼の目に戸惑いの色が浮かんだ。僕がこんな事を言い出すなんて、思ってもみなかったのだろう。
彼が何かを言いかけた時、大きなキャリーバッグを引いて歩く女の人が通りかかった。 その人が僕らの横を通り過ぎるまで、2人とも口をつぐんでいた。
それから三浦さんは、どこか自信なさげにこう言った。
「……本当にいいの? 本当に明日も来てくれる?」
彼がその気になってくれて嬉しかった。でも三浦さんが戸惑っている様子なのは変わりがなかった。
僕はふと思い立ち、紙袋の中から靴を片方取り出して、それをそのまま手渡した。
「片方預かって。明日も絶対来るから、それまで預かっててね」
それは明日の約束を強固にするための行為だった。 僕が必ず靴を取りに来るという意思表示でもあったし、彼が来ないわけにはいかなくなるという打算もあった。
「明日は公園のベンチに11時半。それでいい?」
三浦さんは、靴を片方握ったままでうなずいた。その時彼は、やっと笑顔を取り戻していた。
真っ白な雲は少しずつ形を変えて空に存在していた。
一粒の汗が目に入って、一瞬三浦さんの姿が歪んで見えた。

*   *   *

 翌日は、朝から補習授業に参加した。
教室の窓の向こうから、セミの鳴く声が響いていた。 教師が何かを喋っていたけれど、セミの声と重なって何を言っているのかよく分からなかった。
当然のように、補習授業は退屈だった。 教室にいる20人の生徒たちは、皆同じ思いでいただろう。
空はよく晴れていて、今日も日差しが強かった。窓際の席にいると、だんだん頭が熱くなってくる。
僕は机の上にノートを開いて、まっさらなページに三浦さんの絵を描き始めた。
まっすぐな髪。尖った顎。細い目と艶っぽい唇。そのすべてをはっきりと覚えていたから、手に持つ鉛筆はスラスラとノートの上を走った。 彼の優しい笑顔を描く事は、とても楽しい作業だった。
僕の頭の中は三浦さんで埋め尽くされていて、他の物が入る余地はなかった。
優しげな彼に魅了され、2人だけの秘密を持った事は、ドキドキするような体験だった。
昨日と同じ事が今日も繰り返されると思うと、興奮して体がムズムズしてくる。
補習授業は退屈だけれど、これが終われば三浦さんに会える。 僕はそれがすごく楽しみで、心がウキウキしていた。
そんなある時、突然セミの鳴き声が止んだ。するとメガネをかけた教師の声が、はっきりと耳に届いたのだった。
「今日の補習は1時間延長する。後でテストを行うから、そのつもりでいてくれ」
その言葉に愕然として、鉛筆を持つ手が止まった。 教師が黒板に数式を書き始めると、窓の向こうから再びセミの鳴き声が響いてきた。

 チャイムが鳴って休み時間に入ると、慌てて廊下へ飛び出した。それから静かな階段の下へ行って、すぐにスマホを手に持った。
僕は三浦さんにもらった名刺を注意深く見つめて、彼の勤務先に電話をかけた。
このままでは約束の時間に間に合わなくなるから、待ち合わせ時間を遅らせてもらおうと思ったんだ。
呼び出し音が2回鳴って、女の人が電話に出た。僕はすごく急いでいたから、早口で彼を呼び出した。
「三浦大二郎さんはいますか?」
「少しお待ちください」
のんびりした保留音が流れ出すと、待ち時間が長くて気が焦った。
時々頭上に階段を駆け下りてくる人の足音が響いて、そのたびにビクッとした。
早く、早く。
心の中でそう呟きながら待ち続けて、しばらくするとやっと電話が繋がった。
「はい、もしもし。三浦です」
それは、しわがれた男の人の声だった。ぼくの知っている三浦さんとは違う、年老いた男の声だ。
その声を聞いて、軽いパニックに陥った。この状況がどういう事なのか、すぐには理解できずにいた。
「あの……本当に三浦さんですか?」
「えぇ。三浦大二郎ですが」
「他に三浦さんという人はいませんか?」
「いいえ。三浦は私だけです」
「……」
「もしもし。どちら様ですか?」
相手の問いかけには答えず、力なく電話を切った。
僕はしばらく呆然として灰色の壁を見つめていた。
昨日の人は、三浦さんじゃない。じゃあ彼は、いったい誰なんだ?
避けがたい疑問が浮かんでくると、急に胸騒ぎがした。彼の戸惑ったような目が、僕の頭に蘇っていた。
今日の約束は11時半だ。待ち合わせ時間を遅らせる手立てはない。今分かっている事は、それだけだった。

 僕は廊下を駆け出した。教室に戻って鞄を手に持った時、始業のチャイムが鳴り響いた。それでも臆する事なく廊下へ引き返し、急いで学校を飛び出した。
外へ出ると、約束の公園に向かって早足で歩いた。一歩足を進めるたびに、すべての景色が背後に消えていく。蒸し暑い空気が纏わり付いて、体はすぐに汗に包まれた。
この時僕は、見えない不安に突き動かされていた。とにかくすぐに公園へ行って、彼の姿を確かめたかった。
あの人が誰でも構わない。三浦さんでも、そうじゃなくても、僕が好きになった人に変わりはない。
昨日別れる時、彼の様子が明らかにおかしかった。それを思うと、胸騒ぎが止まらなかった。
あの人は、ちゃんと来てくれるだろうか。昨日の公園で、僕を待っていてくれるだろうか。
彼と出会った事が嘘に思えてきて、どんどん不安が膨らんでいった。
優しげな笑顔も、体に触れた手の温もりも、まだはっきりと覚えているのに。


 遠くの方に公園のベンチが見えてきた時、そこに座る人影を発見して安堵した。
僕はその瞬間から走り出した。一刻も早く彼の側に行きたかったからだ。
汗まみれの僕が走って行くと、彼はゆっくりと立ち上がった。 木陰のベンチは涼しいはずなのに、その時は体が熱くてたまらなかった。
彼は昨日と変わらずそこにいた。 公園で遊ぶ子供たちの姿が遠目に見えた。それはとても穏やかな夏の風景だった。
「秋くん、来てくれたんだね」
僕の姿を見つめて、彼が優しく微笑んだ。
笑うと目がなくなるのは、昨日と何も変わりがなかった。 まっすぐな髪が風になびいているのも、シャツのボタンを1つ開けているのも、まったく同じだった。
昨日と同じ彼なのに、昨日と同じ僕じゃない。
だけどもう後戻りはできない。知ってしまった事を、知らなかった事には絶対にできない。
何も知らないふりをして、彼に付き合い続けるという選択肢もあったけれど、僕はそんなに器用じゃない。
「ねぇ……本当の名前はなんていうの?」
迷いがなかったわけではないけれど、どうしても聞きたかった事を尋ねた。顔から噴き出す汗の粒が、顎を伝ってポタポタと地面に零れ落ちていった。
彼の笑顔は失われた。細い目の奥に暗い影を見て、急激に体が冷えていくのを感じた。
その時僕は、幻想の世界から現実に引き戻されたような気がした。
それはとても寂しい瞬間だった。できる事なら、彼と2人きりの世界で、ずっと夢見心地でいたかった。
「俺が嘘ついた事、知ってたんだね?」
「待ち合わせの時間に遅れそうになって、会社に電話したんだ」
生温かい風が木の葉を揺らした。奇声を上げる子供たちが、ベンチの横を走り抜けて行く。
彼は少し俯いて、乾いた地面を眺めていた。しばらくして顔を上げた時、細い目に少し光る物が見えた。
「ごめん。昨日話した事は、全部嘘だよ。俺の事、変態だと思ってるだろ?」
僕は動揺した。そんなつもりはなかったのに、彼を追い詰めてしまった。
一生懸命に首を振ったけれど、僕の思いが届いたかどうかは分からなかった。
名前も知らない彼は、吹っ切れたように微笑んだ。それは僕が大好きな、とても優しげな笑顔だった。
「君があまりにも可愛くて、思わず声をかけたんだ。俺を信じ切って夢を語ってくれたりするから、罪悪感でいっぱいだった」
「ねぇ、そんな事聞いてないよ」
「あんなバカな事しないで、素直に友達になりたいって言えばよかった」
彼はそう言って唇を噛んだ。そして、黙って青い紙袋を僕に差し出した。 その中身が靴の片方である事は、もちろん見なくても分かっていた。
「俺が言うのも変だけど、甘い言葉に誘われて知らない人について行くのはやめた方がいいよ」
「……」
「短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」
もう一度会えてほっとしていたのに、すぐに別れを告げられてしまった。
彼は僕に背を向けて、足早に立ち去ろうとしていた。夏の陽炎が、その姿をぼんやりと滲ませていた。
僕は彼を責めるつもりはなく、むしろ出会えた事に感謝していた。 多分最初の笑顔を見た時から、彼の事が好きになっていた。
確かに僕は、靴が欲しくて彼について行った。でもきっと、彼じゃなければついて行く事はなかった。 決して誰でもいいわけじゃない。僕は彼だからついて行ったんだ。
きっと彼は知らないのだろう。 僕が本当は人見知りで、すごく慎重な人間である事を。 初めて会った人に心を許すなんて、普通じゃあり得ないという事を。
そんな僕の事を、もっともっと知ってもらいたかった。 このまま彼を帰してしまったら、絶対に後悔する。
大地を蹴って公園を出て行く彼を、迷わず追いかけた。
彼はもう知らない人ではないから、ついて行ってもいいはずだった。

 昨日別れた交差点で、すぐに彼に追いついて、大きな声で呼び止めた。
「待って!」
公園を出てからの彼は、歩く速度を落としているように思えた。僕が追いかけてくるのを、待っていてくれたような気がした。
振り返った彼は、曇りがちな目をしていた。 白いシャツが風に膨らんでいて、まっすぐな髪が大きく揺れていた。
「僕も、嘘ついたんだ」
彼が不思議そうに僕を見つめた。アスファルトの照り返しが強すぎて、また体が熱くなってきた。
「身長168センチって言ったけど、本当は165センチしかない。自分を大きく見せたくて、嘘ついたんだ」
「……」
「僕も嘘ついたから、おあいこだよ」
「……」
「僕たち、やり直せるよ」
僕が笑うと、彼の表情が少し和らいだ。
彼と出会えた事は嘘じゃなかった。僕にはそれだけで十分だった。
口先だけの嘘なんか、取るに足らない事だった。彼と出会えた現実だけが、僕にとっては重要だったんだ。
僕は昨日と同じじゃない。昨日より、もっと彼の事が好きになっていた。 まだ口にしていないその思いを、これからゆっくり彼に伝えていきたいと思っていた。
「ねぇ、名前を教えて。これからなんて呼んだらいいのか分からないから」
それは精一杯の意思表示だった。 これからも一緒にいたいという事を、そんな言葉で伝えたんだ。
彼の目が徐々に晴れていくのを、黙って見つめていた。
優しく微笑む彼は、細い指で顔の汗を拭った。
「俺の名前は、千春。夏生まれなのに千春っていうんだ」
「夏生まれなのに千春なの? 僕と似てるね」
その時、やっと聞きたかった事が聞けた。
千春さんの背後で、青信号が点滅していた。 誰かが手放した白い風船が、風に飛ばされて右の方へ消えて行った。
彼の肩越しの景色を、しっかり覚えておこうと思っていた。千春さんを描く時に、背景が必要だと思ったからだ。
その時不意に、細い指が髪に触れた。僕の髪は汗でしっとりと濡れていた。
「いっぱい汗かいちゃった。シャワーに入りたい……」
何気なく呟いた言葉に、千春さんが反応した。絆の深まった僕たちは、新しい未来へ歩みを進めようとしていた。
「俺の部屋に来る?」
その言葉が何を意味しているかは、よく分かっていた。彼の誘いを断る理由は、何一つなかった。

*   *   *

 千春さんのアパートは、公園を出て10分ぐらい歩いた所にあった。3階建てのアパートの、2階の奥が彼の部屋だった。
日当たり良好の部屋に足を踏み入れると、甘いアロマの香りがした。
エアコンの風が、乾いた空気を揺らしている。 出窓の側にはベッドがあり、その右側には横に長いクローゼットが置かれていた。
「暑かっただろ? シャワーを浴びておいで」
彼はそう言って僕を送り出した。
汗に濡れたシャツを脱ぎ捨てた時、それだけで少しすっきりした。 裸になって肌に触れてみると、ベトベトするような感触が指先に広がった。
シャワーの雨を体に浴びると、汗が洗い流されて気持ちがよかった。
この後の事を考えると、すごくドキドキした。シャワーを浴びた後、僕たちはどうなるのだろう。
それを思うと落ち着かず、バスルームを出るのが怖かった。 だから僕は、ゆっくりと時間をかけてシャワーを浴びるつもりでいた。

 ところがある時、背中の後ろでバスルームのドアが開いた。 突然の事に振り返ると、湯気の向こうに裸の千春さんが立っていた。
彼の体は綺麗だった。手足が長くて、色白で、乳首は薄い桜色だった。
千春さんはボディソープを手に取り、円を描くようにして背中を洗ってくれた。
石鹸の香りが僕をほっとさせた。そして、背中に感じる手の温もりが心地よかった。
「肌が綺麗だね」
そんなふうに言われても、うまく返事ができなかった。 すごくドキドキしていて、どう対応すればいいのか分からなかったんだ。
背中を洗っていた彼の手が、少しずつ下の方へ移動していった。 腰の付近を洗って、お尻を洗って、小さな穴の入り口に指が触れた時、思わず息を呑んだ。
彼は指先に乗ったボディソープを、そこにたっぷり塗り付けた。 本当は千春さんの顔を見たかったけれど、緊張していてもう振り向く事はできなかった。

 千春さんは僕の背面を洗い終えると、今度は後ろから抱きしめるようにして胸を洗ってくれた。
やがてその手はまたゆっくりと下の方へ移動していった。 彼の手が濡れたヘアーに触れた時、急激に興奮が高まっていくのを感じた。
次の瞬間、ヌルッとした手が硬くなったペニスを掴んだ。 彼はゆっくりと上下に手を動かして、僕の反応を伺っていた。
「ダメ。気持ちよくなっちゃう」
絞り出すようなその声は、シャワーの音にかき消されそうだった。
徐々に気持ちが高ぶって、立っているのが辛くなってくる。
僕は濡れた壁に両手をついて、崩れ落ちそうな体を支えていた。 口ではダメと言いながら、体は千春さんの手を欲していた。
「もっといい気持ちにしてあげるよ」
シャワーの雨は、止む事を知らなかった。
千春さんは僕のお尻を引き寄せて、そっと中に入ってきた。ボディソープで滑りが良くなっていたから、挿入はとてもスムーズだった。
自分の体に彼が入り込むと、下半身に重苦しい快感が広がった。 2人がしっかり繋がった事を実感して、興奮せざるを得なかった。
狭い穴が刺激を受けて、熱っぽくなってくるのを感じた。千春さんは、角度を変えて僕を何度も突いてきた。
彼は手を上下運動させる事も決して忘れなかった。 前と後ろを同時に攻められると、体が激しく揺れ動いた。僕は息を弾ませ天を仰いだ。
「あぁ……千春さん……」
顔に降りかかる雨を気にも留めず、快感に浸っていた。 爆発寸前のペニスを抱えて、ひたすらシャワーの雨に打たれていた。
壁についた両手が震えていた。そして両足はガクガクしていた。
燃えるような快感が全身に襲いかかり、シャワーの音が遠く聞こえる。
もう本当に立っていられなくなりそうだった。 僕は壁を掴むようにして、腰が砕けそうになるのを必死に堪えていた。
「感じる?」
「もう出ちゃう……」
「出してもいいんだよ」
そんな会話がバスルームに響き渡った。それから間もなく、僕は射精した。
その瞬間はすごく気持ちがよくて、天にも昇る心地がした。
その時、自分が空っぽになったような気がした。 溜まっていた性欲が吐き出される感覚を、そんなふうに思ったんだ。
ペニスの先から溢れ出したものが、壁を伝って流されていく。僕はその様子を、2つの目で漠然と見届けた。
体の揺れはもう感じなかった。その時千春さんは、すべての動きを止めたのだった。
「あぁ……」
シャワーの音に紛れて、小さく喘ぐ声が聞こえてきた。
空っぽになった体の中で、千春さんが果てるのを感じていた。彼のペニスが僕の中でしぼんでいくのが、とてつもなく嬉しかった。
片方ずつの靴を合わせるように、僕たちは2人で1つだった。 どっちか1つが欠けると歩く事もできないし、満たされない。そんな気がして、喜びが溢れた。


 火照った体を引きずってバスルームを出ると、千春さんが柔らかいタオルで体を拭いてくれた。
僕はバスマットの上に立っているだけでよかった。昨日からずっとお姫様扱いで、彼が何もかもやってくれるからだ。
バスルームの湯気が辺りに充満して、洗面台の鏡は雲っていた。 彼と初めて愛し合った後は、大きな幸せを感じていた。
「すっきりした?」
そう言われて、小さくうなずいた。千春さんの髪は濡れていて、肩に雫が垂れていた。
彼が笑顔でいてくれて、すごくほっとした。その笑顔が失われないように、ずっと尽くしていきたいと思っていた。
タオルで頭を拭いてもらう時、遠慮がちに彼の腰に両手を回した。 千春さんは一瞬動きを止めた後、思い出したようにこう言った。
「キスするの忘れてた」
それからすぐに頭を引き寄せられて、2人の唇が重なった。
千春さんは、キスがとても上手だった。僕はついて行くだけでやっとだったけれど、彼がちゃんとリードしてくれた。
緩く結んだ唇がこじ開けられ、口の中で2人の舌が重なり合う。 甘いキスが長く続くと、気持ちがよくてまた腰が砕けそうになった。だから僕は、彼にずっとしがみついていた。
初めてのキスを終えた時、最初に見たのは彼の笑顔だった。
艶っぽい唇が、濡れて光っていた。千春さんはキスの余韻を楽しむかのように、そっと濡れた唇を舐めた。

 僕は彼に手を引かれてアロマの香りがする部屋へ戻った。腰にタオルは巻いてもらったけれど、ほとんど裸のままだった。
「何か服を着せてあげるね。君に似合う物があるといいんだけど」
千春さんは、クローゼットの扉を開けてゴソゴソやっていた。
その途中で見つけたティーシャツを被ったり、畳んであったパンツをはいたりして、彼の身なりは整いつつあった。
強い日差しが木の床を照らし、彼の髪を光らせていた。 エアコンの風は涼しくて、湿りがちな肌はあっという間に乾いていった。
「ちょっと待ってね。どこかに新しいパンツがあるはずなんだよ」
ゴソゴソやりながらそう言う彼を、すぐ側で見守っていた。
その時僕は、彼が三浦さんだった時の事を思い出していた。 他人の名刺を使って、あんな嘘をついてまで、幻想の世界へ連れて行ってくれた時の事だ。
僕は彼の笑顔が失われないように、尽くしていく事を誓っていた。 そんな僕にできる事は、彼の欲望を満たしてあげる事だと思っていた。そしてそれは、自分の欲望を満たす事でもあった。

 目当ての物を見つけられず、立ち尽くしている彼に抱き付いた。
千春さんは不意を突かれて驚いていたけれど、それでもしっかりと受け止めてくれた。 僕は彼の胸に頬を寄せて、背中に回した手に力を込めた。
「ねぇ、オムツして」
「え?」
「千春さん、ああいうプレイが好きなんでしょう?」
「……」
「僕も好き。だから、オムツして」
恐る恐る見上げると、すぐに彼と目が合った。 千春さんは笑顔を忘れ、困惑したような表情を浮かべていた。
「僕、隠してた事があるんだ。昨日公園でおもらしした時、すごく興奮した」
「……本当に?」
「今日もやりたい。そうしたら、また感想を聞かせてあげる」
エアコンの風が強すぎて、体が冷えてきた。 早くオムツを着けて、柔らかな空気に包み込まれたかった。

 千春さんが、優しい笑顔を浮かべた。僕の頭を撫でながら、にっこりと微笑んでくれたのだった。
「パンツが見つからないから、ちょうどいいね」
彼はクローゼットの奥に紙オムツを見つけて手に取った。どうやらそれの置き場所だけは、きちんと把握しているようだった。
それから昨日と同じように、僕の前でしゃがみ込んだ。昨日と違うのは、右手に短いキスをしてくれた事だった。
「じゃあ、リラックスしてね」
僕がうなずくと、腰に巻いていたタオルが外されて床の上に落下した。 その時、涼しい風が細かい埃をほんの少しだけ舞い上がらせた。
千春さんの手は今日も温かかった。その手が僕に触れたかと思うと、小さなお尻がオムツに包み込まれた。 そしてすぐに前の方に被せて、左右をテープで止めてくれた。
オムツだけの姿を晒してしまうと、やっぱり少し恥ずかしかった。一旦冷えかけた体が、また火照ってくるのを感じていた。
千春さんは立ち上がり、笑顔で僕を見つめて、強く抱きしめてくれた。
「秋くん、素敵だよ」
小さく耳元で囁かれた時、恥ずかしさよりも嬉しさが上回った。
こうやって時を重ねて、2人の思い出をいっぱい作っていきたい。
キスをしたり、愛し合ったり、時には喧嘩もしてみたい。それはすべて、僕たちだけの秘密の思い出になるはずだ。
昨日見た幻想は、今日になってすべてが現実に変わった。
だけどもう寂しくはなかった。千春さんの温もりをこんなに近くで感じられるから、寂しいはずなんかなかった。
僕は今日から、千春さんとの思い出を漫画で描き始める事に決めた。
それは甘酸っぱい恋物語で、決して終わる事のない連載漫画にしたいと思っていた。
END

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