空の怪
 4月中旬。空はよく晴れていた。
その日の3時間目は課外授業で、学校の近くの公園へ行った。
僕たちはスケッチブックを持たされ、なんでもいいから公園の景色を描くように言われたのだった。
そこには水の透き通る池があり、芝生がとても綺麗だった。池の畔には真っ白な洋館が建っていて、多くのクラスメイトがそれをスケッチするために集まっていた。
学ランの男子たちも、セーラー服の女子たちも、教室で机に向かっている時より、ずっとリラックスしているように見えた。皆は周りの人たちとお喋りしながら、とても楽しそうに笑っていたんだ。
だけど僕には疎外感があって、その人たちからそっと離れた。
今は高校へ入学して間もない時期で、僕はまだ新しいクラスに慣れていなかった。ちゃんと学校へは来ていたけれど、それほど親しい友達ができていなかったんだ。
洋館の近くには、家永くんの姿もあった。彼は背が高くて、短い髪がよく似合っている。
何気なく家永くんを見ると、いつも必ず目が合った。それは本当に、100パーセントの確率でそうなるのだった。
そんな時、彼はニコリともしない。鋭い視線をこっちに向けるだけで、なんの意思表示もしてくれない。
それでも、家永くんと目が合うたびにドキドキした。
こんなに何度も目が合うんだから、彼は僕に好意を持ってくれているはずだった。
それなら何か言ってくれればいいのに。
友達に飢えていた僕は、いつもそんなふうに思っていた。


 僕は芝生の上を長々と歩いて、池の向こう側へ出た。その途中には東屋があって、ベンチの奥にはトイレが設置されていた。
皆と離れて1人になると、なんとなく落ち着いて、水の中の魚をぼんやりと眺めた。
池に小石を投げ込むと、驚いた魚たちが一斉に遠くへ散っていった。それでもしばらくすると、また元の場所へと戻って来た。
それがすごく面白くて、何度も同じ事を繰り返した。僕はその様子を観察しながら、魚の絵を描く事に決めたのだった。
モチーフが決まると、芝生の上に腰掛けてスケッチブックを開いた。絵を描くのに夢中になると、すごく楽しくなってきた。
それからは、時間も忘れて一生懸命に課題に取り組んだ。

*   *   *

 しばらくスケッチを続けていると、途中でおしっこがしたくなってきた。それでも作業を中断するのが嫌で、トイレに行くのをずっと先送りしていた。でも絵が完成間近になった頃、遂に我慢ができなくなってしまった。
確かトイレは東屋の近くにあったはずだ。
僕はそれを思い出し、スケッチブックを投げ出して、すぐにそっちへ歩き始めた。
その時には、公園のあちこちにクラスメイトの姿が見えた。多分皆も絵を描き終えて、池の周りをうろついていたのだろう。
春の風に吹かれながら、とにかく急いでトイレに向かった。東屋が見えてきた頃には、もうズボンのファスナーに手を掛けていた。
しかしその時、思いがけない物が目に飛び込んで来た。プレハブ小屋のようなトイレの壁に、「閉鎖中」と書いた紙が貼られていたんだ。
それを見た時は愕然とした。既にファスナーを下ろす寸前だったのに、僕はもう少しおしっこを我慢する破目になってしまったのだった。
そこで瞬時に考えた。洋館の方へ行けば、きっとトイレがあるはずだ。
僕は踵を返してすぐにそっちを目指した。池の周りを急いで歩いて、一刻も早く洋館へ行かなければならないと思っていた。
でも歩いているうちに、だんだん焦りが芽生えてきた。
心臓の動きが早くなり、一歩足を踏み出すたびに、尿意が強くなっていくのを感じる。
すごくおしっこがしたい。少しでも気を抜くと、漏らしてしまいそうな予感がする。
洋館はまだ遠くて、トイレの位置もよく分からない。こんな調子で、本当に間に合うだろうか。
何度もそう思いながら、必死に前へと足を進めた。
ところが慌てていたせいか、その途中で石ころにつまずいた。すると体のバランスを大きく崩して、池を囲む木の枝に激しくぶつかってしまった。
尖った枝はすごく鋭利で、その瞬間は鼻が痛かった。しかしそれ以上に大きな問題が、自分の身に降り掛かっていた。
木にぶつかった衝撃で、僕はとうとうおもらししてしまったのだった。
いきなりジャーッと音がして、大量のおしっこが溢れ出た。
温かい水が、次々と地面に流れ落ちていく。足元に目をやると、緑の芝生が朝露に濡れた時のように、キラリと光る様子が見えた。
パンツは水浸しになっていた。ズボンは派手に濡れてしまい、靴下にまでおしっこが染み込んでいく。春の風は弱すぎて、ズボンを乾かす事はできそうにない。
頭の上を鳥が飛んでいった。揺れる木の葉が、さわさわと音を立てている。
魚がバシャッと飛び跳ねて、池に波紋が広がっていく。
僕はその時最悪な瞬間を生きていたのに、自然の美しさを肌で感じていた。それはきっと、今を受け入れられない自分が、現実逃避を行った結果だった。
しかしそれも長くは続かなかった。ある時木陰から人が出て来て、僕は彼と目が合った。

 長身の家永くんが目の前に立つと、僕の姿がその影に覆われた。
いつものように、鋭い視線が自分に向けられている。彼はきっと、すぐに僕の惨状に気付いたはずだった。
その時はすっかり絶望していた。
よりによっておもらしした姿を家永くんに見られるなんて、不運としか言いようがなかった。彼とは友達になれるかもしれないと思っていたのに、淡い期待は失われた。
それだけじゃない。きっとこれから、クラス全員におもらしした事がバレてしまう。そして僕は、皆に笑われてしまうだろう。
そんな思いが頭をよぎった時、家永くんの様子が変化した。口元を緩ませ、少し目を細めて、僕に小さく微笑んだんだ。
「空が綺麗だね」
彼はそう言って空を見上げた。本当はそれどころじゃなかったのに、僕もつられて同じ事をした。
その日は本当によく晴れていた。視線の先には、確かに真っ青な空が見えた。あまりにも綺麗な空の青に、吸い込まれてしまいそうな気がした。
ところが一度瞬きをすると、目を疑うような事が起こった。

 突然空が灰色に染まった。太陽が雲隠れして、辺りが一気に暗くなり、湿った風を肌に感じた。
頬に水滴が当たった時、僕はすごく驚いた。何がどうなったのか分からないうちに、灰色の空から大粒の雨が落ちてきたんだ。
突然のにわか雨は、信じられないほどの激しさだった。僕らは豪雨に襲われ、あっと言う間に全身がずぶ濡れになった。
東屋に避難する人の群れが、遠目に見える。でもその様子は、勢いを増す雨のせいですぐに霞んでしまった。
池にも芝生にも、無数の雨の矢が次々と突き刺さっていく。頭も足も水を浴びて、おもらしの形跡はすっかり雨に呑み込まれた。
豪雨のカーテンに阻まれても、家永くんの姿だけはちゃんと見えた。
2人の視線が、惹かれ合うようにぶつかった。彼はまったく濁りのない目で、ただじっと僕を見つめていた。
真っ黒な髪が、濡れて頭皮に貼り付いている。僕と同じように、学ランは水を吸って重くなっていたはずだ。
僕は何か言おうとしたけれど、すぐにそれを諦めた。雨音があまりにも激しくて、彼に声が届かないと思ったからだ。
2人はお互いに目を逸らさず、最後まで視線を交わしていた。
冷たい雨を浴びたのに、体がすごく熱かった。


 にわか雨は、ほんの数分で止んだ。
辺りはすぐに静けさを取り戻し、何もなかったかのように日差しが大地を照らした。
空の色は、また綺麗な青に戻っていた。どこを探しても、雲などまったく見当たらない。
弱い風が、雨上がりの香りを運んできた。東屋に避難していた人たちが、方々へ散っていく。
学ランの金ボタンが、不意にキラリと光った。その光の向こうには、ずぶ濡れになった家永くんがいた。
彼は頬に滴る水を拭って、また口元を緩ませた。
すると急に安心して、体の力が抜けていった。豪雨に見舞われてほっとするのは、多分生まれて初めてだった。
こんな所でおもらしして、皆に笑われてしまうと思っていた。
だけど僅かな時間の豪雨が、その不安を消し去った。まさかこのタイミングでこんな幸運が訪れるなんて、思ってもみなかった。

 僕は確かにほっとしたけれど、同時にすごく混乱していた。次々と訪れる白昼夢のような出来事に、心が追いついていなかった。
それでも一つだけ信じていた事がある。この幸運は、家永くんがもたらしてくれたという事だ。
理由はうまく話せないけれど、そうとしか思えなかったし、そうであってほしかった。
そして僕は、家永くんに問いかけた。後から考えるとおかしな事に思えるけれど、その時は本気でこう言ったんだ。
「どうやって雨を降らせたの?」
彼はすぐには答えず、2〜3回頭を振って髪の水気を落とそうとしていた。
家永くんは、もう微笑んではいなかった。いつものようにニコリともせず、鋭い視線をこっちに向けていた。
「お前のためなら、空の色なんかすぐに変えてやるよ」
僕のおかしな質問に、彼は真面目に答えてくれた。その目にも言葉にも、決して嘘はないように思えた。
一緒にずぶ濡れになった彼を見ていると、体の熱がどんどん高まっていくのを感じた。
家永くんは、説明のつかない方法で僕を守ってくれた。それがたとえ夢の中の出来事だとしても、そんな彼を愛さずにはいられなかった。
人を好きになるのは理屈じゃない。空が一瞬にして色を変えたように、僕の心も瞬時に彼の色に染まってしまったんだ。
僕はただ、彼と一緒に生きていきたいと思った。本当はもっと前から、そう思っていたような気がする。


 ずぶ濡れの家永くんが、もう一度穏やかに微笑んだ。
池の水が、風に吹かれて波打っている。木の葉の上から、小さな雫が滑り落ちてくる。
彼の頭の上を、鳥が飛んでいった。それは天使のように羽を広げた、大きな大きな鳥だった。
雨に洗われたその風景は、とても美しく僕の目に映った。
僕たちは、肩を並べて歩き出した。
もう急ぐ必要はまったくなかった。好きな人と一緒にいる喜びを噛みしめながら、できるだけゆっくり歩きたいと思った。
時々家永くんと目が合うと、いつも口元を緩めて笑ってくれた。唇の横の小さなほくろさえ、僕にはとても愛しく思えた。
彼と同じ空の下で、彼と同じ風を感じている。それだけで嬉しくて、常に心が華やいだ。
僕たちは池の周りを歩き続け、引き寄せられるようにして真っ白な洋館へ向かった。
白の壁がとても眩しくて、僕は思わず目を細めた。
そこがチャペルである事を、その時2人はまだ知らなかった。
END

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