好きだから、言えない 4
 目が覚めた瞬間、最初に俺の目に飛び込んできたのは見慣れないブルーのカーテンだった。
心臓の動きが早い。その時俺の耳に響いていたのは、自分の高鳴る心臓の音だけだった。
尻の下が冷たい。俺はそれをさとった時、言い知れぬ絶望感を覚えた。
すぐ隣には、俺に背を向けて勇気が眠っている。
その時部屋の中はまだ暗かった。その中で耳を澄ますと、定期的に勇気の寝息が聞こえてきた。
俺はそっとベッドの上に起き上がり、体の上に掛けられているタオルケットを静かにめくってみた。 するとタオルケットも濡れていたし、シーツもふとんも濡れている事がすぐに分かった。
俺はその事実をはっきりと受け止めた時、覚悟をしていたせいか意外に冷静だった。
でも隣で眠る彼の背中を見つめると、自然と目に涙が溢れてきた。
だけど、泣いている場合じゃない。もう終わりだ。早くこの部屋を出て行かなくちゃ。
俺はそっとベッドを下りた。そして床の上に散らばる自分の洋服を拾い集めてそれを全部身に着けた後、枕を抱いて眠る勇気のシルエットを一度だけ見つめた。
これが最後なのに、部屋の中は暗すぎて彼の顔はろくに見えなかった。
バイバイ、勇気。すごく好きだったよ。

 俺は彼の部屋を出てそっとドアを閉め、一度も振り返らずに路上駐車してある自分の車を目指した。
空は、薄っすらと明るくなりかけていた。腕時計を見ると、今が朝の3時過ぎである事が分かった。
早朝の風はとても冷たかった。いくつも並ぶアパートの前の細い道をしばらく歩くと、そこにはちゃんと俺の黒い車があった。
まだ辺りに人影はなく、ただどこかで小さく犬の鳴く声がした。
車内は、凍えるほど冷え切っていた。
俺はエンジンをかけて車の中を温め、すぐにアクセルを踏んでその場を離れた。
俺はその時放心していて、いったいどの道を通って自分のアパートへ帰ったのかよく覚えていない。
大通りを走って帰ったような気もするし、川沿いの道を走って帰ったような気もする。
ただ、貧乏人の自分は何があっても今日のバイトを休む事はできない。
その事だけはしっかり頭の中にあって、思い切り泣くのはバイトを終えて部屋へ帰ってからにしようと漠然と考えていた。

*   *   *

 その朝、俺はちゃんと7時にバイト先へ行った。
俺のバイト先は24時間営業のファミリーレストランだ。この時間は朝食を食べに来る客が大勢いて、店はかなり忙しい。
でも、忙しい方が嫌な事を忘れられる。
俺は目の下にクマを作りながらもワイシャツに蝶ネクタイをして、いつも以上に忙しくホールの中を動き回った。
とにかく時間に追われ、カウンターからボックス席まで次々と料理やコーヒーを運び、汚れたテーブルを拭き、客のグラスに水を注いで歩くのを何度も繰り返した。

 午前9時になると、窓ガラスの外から明るい太陽の光が差し込んで俺の体を温めてくれた。 朝食ラッシュが終わって仕事が暇になってしまったせいか、今ちょうど勇気の授業が始まったな……などと余計な事が頭に浮かんだりもした。
ふと足元に目をやると、薄茶色の床の上にコーヒーをこぼしたような汚れが付着している事に気付いた。
何かしていないと余計な事を考えてしまうから、モップで床掃除でもしよう。
俺がそう思いながらだいぶ客の引けたホールの中を歩いていた時、いきなり1番奥の席に座っている若い女が右手を上げて俺を呼んだ。
俺はその瞬間、胃を鷲づかみされたかのような痛みを胸に感じた。
ショートカットの若い女が座っているその席は、3ヶ月前の夜に勇気が座っていた席だった。
俺はあの日の夜今と同じように手を上げて勇気に呼ばれ、「タルタルソースはないの?」 と彼に言われたのだった。
あの時、勇気の目の前には白い皿の上に乗っかったエビフライがあった。うちの店では、エビフライの横にマヨネーズを絞って出す。でも調理師学校へ通う彼はそれでは納得せず、「エビフライにはやっぱりタルタルソースだと思うんだ」 と真剣な目で、青い目で俺に語りかけた。それが俺と彼との出会いだった。
「コーヒーのおかわりをいただけますか?」
ショートカットの若い女が、テーブルの前に立つ俺にそう言った。勇気とは違う目で。勇気とは違う声で。
もう俺のそばに勇気はいないんだ。
仕事中はずっと気を張っていたのに、たったこれだけの事でその事実を再確認してしまった。
「ただいまお持ちします」 と返事をして彼女に頭を下げた時、たまらず目から涙が零れ落ちた。
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