2つ目の嘘
 「誠、ジュース買うけど何がいい?」
「じゃあ、コーラ」
俺は本屋の横にある自動販売機の前に立ち、携帯電話を耳にあてて誠と話をしていた。
彼はこの4月に中学3年生になった。そして最近やっと携帯電話を持つようになった。
俺は少し前まで彼との待ち合わせに遅れてばかりいたけど、こうして2人とも携帯電話を持つようになった今は長々と彼を待たせるような事もなくなった。
「今マンションの前に着いたよ」
「そうか。すぐ行くよ」
俺はそう言って電話を切り、冷たい缶コーラを2本抱えてすぐに彼の元へ向かった。
5月の空は曇っていた。
少し残念だ。今日はきっと窓から遠くの山は見えないだろう。誠はもしかしてその事にがっかりするかもしれない。
曇り空の下 歩道の上を急ぎ足で歩いて行くと、すぐに誠の姿が見えてきた。
彼はマンションの入口の前に立って灰色の空を見上げていた。
茶色に染めたばかりの彼の髪はまだなんとなく見慣れない。でも、ちょっと大き目の白いトレーナーはもちろん見慣れている。
誠は最近なんでも俺の真似をしたがるようになって、俺とお揃いのトレーナーを買い、俺と同じ髪の色に染めたのだった。
そして彼は、来年俺が通う高校を受験すると宣言していた。

 誠はその日、俺の部屋へ来ても窓の外の景色を見ようとしなかった。
いつもなら真っ先にベッドに飛び乗ってすぐにガラガラと窓を開けるのに、その日の彼はそれをせず、ただベッドの隅に腰かけてぼんやりと宙を見つめているだけだった。
「誠、景色を見ないのか?」
俺は誠の隣に座って彼の手に冷たい缶コーラを握らせた。その時彼は、黙って小さく首を振るだけだった。
その日の誠は元気がなかった。
俺はその事が気になって、コーラをゴクゴクと飲みながら隣に座る彼の顔を観察しようとした。 でも俺の真似をして伸ばしている前髪が邪魔をして、彼の表情はよく読み取れなかった。
だけど俺は、彼の機嫌を直す方法ならいくらでも知っていた。
「誠、ほら」
俺は制服のブレザーを脱いで彼に着せてやった。こうしてやると誠がいつも喜ぶからだ。
誠は袖丈が長すぎるブレザーに身を包み、嬉しそうに笑いながら俺の目を見つめた。
すかさず彼にキスをすると、いつものようにふっくらした頬が桃色に染まった。
俺は彼を抱きしめてそのまま布団の上に倒れこんだ。
でも、やっぱり誠はいつもと違っていた。
いつもはもっと積極的なのに、その時の誠は俺との行為にまるで上の空で、洋服を脱がせてもろくに反応しなかった。
大好きな彼の一重の目は、ただ力なく宙を見つめていた。

*   *   *

 誠と愛し合った後、俺たちは裸のままベッドに寝そべって白い天井を見つめ、しばらくぼんやりとしていた。
でも本当にぼんやりしていたのは誠の方だけだった。俺はその時、頭の中で様々な事を考えていた。
今日の誠は、全然気乗りしていなかった。
今まで何度も彼を抱いたけど、これほど一方通行なのは初めてだった。
彼は感じているふりさえしなかった。俺はその最中、自分が物言わぬ人形を抱いているかのような錯覚に何度も陥った。
気まずい部屋の中に響くのは、目覚まし時計の針が時を刻む音だけだった。 いつもは気にならないカチカチという音がやけに耳に付く。いつもはお喋りな誠が今は全然喋ろうとしない。 このままじゃ、息が詰まりそうだ。
俺は布団を蹴ってベッドの上に起き上がり、ガラガラと窓を開けて部屋の空気を入れ換えた。 淀んだ空気にとても耐えられなかったからだ。
誠は俺の行動なんか全然気にする事もなく、仰向けに寝たままじっとしていた。
湿った外の風が部屋の中に入り込み、誠の茶色い髪をわずかに揺らした。
その瞬間、彼は小さくため息をついて俺に背を向けた。
すると外の光が彼の白い背中を明るく照らした。本当なら今すぐその細い背中を抱きしめたい。 だけど、俺はなんとなく気まずくてどうしてもその行動を起こす事ができなかった。
今日の誠は絶対におかしい。
俺は自分でも気づかないうちに彼を傷つけてしまったんだろうか。
それとも、彼はもう俺に飽きてしまったんだろうか。
誠の背中を見つめていると頭の中に次々と良からぬ想像が浮かび、不安が膨らむばかりだった。

 「あんまり良くなかった?」
俺はもう一度ベッドに横になって彼の白い背中にそっと問いかけた。だけど、誠の耳には俺の声なんかちっとも聞こえていないようだった。
返事のない背中にそっと手を伸ばして背骨の上を指でなぞると、誠がフフッと笑って肩をすぼめた。
「くすぐったい」
その声が弾んでいたので、俺は少し安心した。
俺はもう迷わず彼を背中から抱きしめた。そして今度は胸に回した手の指でそっと白い素肌をなでてやった。 すると誠はその手をぎゅっと強く握り締め、中指にそっとキスをしてくれた。
俺はその瞬間にさっきまでの不安が全部吹っ飛んだ。誠は俺の事を嫌いになったわけじゃなかったんだ。
でも、その後すぐに別な不安が頭をもたげてきた。 俺との事が原因じゃないなら、彼はどうして元気をなくしているんだろう。
肌と肌が触れ合うと、誠の体温が俺の体に伝わってきた。誠の髪の匂いを嗅ぐと、彼がシャンプーを変えた事がすぐに分かった。
彼は去年より少しだけ背が伸びた。それは彼といつも触れ合っていればすぐに分かる事だった。 俺はこれからも誠が成長していく姿を肌で感じていたいと思った。
「なぁ誠、何か嫌な事があったのか?」
「え? どうして?」
「だって、元気がないからさ」
「そんな事ないよ」
誠は俺に背を向けたまま歯切れの悪い口調でそう言った。
彼がなかなかこっちを向いてくれないから、俺にはその時誠がどんな顔をしていたのか全然分からなかった。

 それからしばらく、俺たちの間に沈黙が流れた。
俺の耳には目覚まし時計のカチカチという音が響き、俺の目には彼の真っ白な背中が映し出されていた。
それは、とても長い沈黙だった。
去年の夏に誠と知り合って以来、彼との間にこれほど長い沈黙が流れた事は一度もなかった。 俺は、いつも陽気でお喋りな誠がとても好きだった。
「誠、好きだよ」
長い沈黙を破ったのは俺の方だった。俺は不慣れな沈黙に耐え切れなかった。 でもそれ以上に、彼を黙らせる何者かの正体を突き止められない事が悔しかった。
骨が折れそうなほど強く彼の手を握ると、誠も俺の手を握り返してくれた。
後から考えると、それは胸に秘めた思いを打ち明ける決意の表れだった。 彼がやっと重い口を開いたのは、それからすぐ後の事だった。
「あのさぁ……」
それを言う時、彼が少し俯くのが分かった。俺はその時、どんな話でも聞いてやる覚悟ができていた。
「来月、修学旅行があるんだ」
「うん」
「でも俺、行きたくないんだ……」
風に消え入りそうなその声を聞いた時、俺はすべてを理解した。
彼の家の裏には、今でも時々地図の描かれた布団が干してある。誠を悩ませているのは、その事に違いなかった。

 俺の頭に、中学の時の修学旅行の映像が鮮やかに蘇った。
美人なバスガイドにちょっかいを出したり、友達と肩を寄せ合って写真を撮ったり、他校の生徒と喧嘩をしたり。 それは、友達とバカをやった楽しい思い出ばかりだった。
そして宿泊先では、夜中まで皆と話し込んだ。
あの時は普段あまり話さないような話題で盛り上がった記憶がある。 誰かがどこかの女とキスをしただとか、アダルトビデオの隠し場所が母親にばれたとか。
今思えばくだらないけど、あの時はそんな話題ですごく盛り上がり、あの夜を共に過ごした事で 仲間たちとの絆が深くなったのはたしかだった。あれは俺にとってかけがえのない大切な時間だった。
俺は誠にもそんな時を味わわせてやりたいと思った。
でも彼の不安はすごくよく分かる。楽しいはずの時は、あっという間に残酷な時に変わってしまう事がある。
もしも旅先で誠が失敗したら、彼はもうその後の時間を絶対に楽しめなくなる。そして彼の心に大きな傷が残る事になる。

 誠の背中は白くて細くて頼りなかった。彼はそのちっぽけな背中に大きな不安を背負っていた。
そして俺は、自分にしかできないやり方で彼の不安を取り除いてやりたいと思っていた。
「修学旅行は、どこ行くの?」
「北海道」
「何日間?」
「5日間」
誠の声には張りがなかった。俺は彼の背中を今まで以上に強く抱きしめた。
「行くなよ、誠」
「え?」
「俺、お前と5日も会えないなんて嫌だよ」
「……」
「旅行の当日、病気になっちゃえよ」
誠は俺に背を向けたままで何かを考えているようだった。俺は早くこっちを見てほしくて、ずっとその瞬間を心待ちにしていた。 だから俺は彼の背中に向かって必死に語りかけた。
「俺、学校さぼって毎日仮病の見舞いに行くからさ。だから、ずっと俺と一緒にいよう」
誠はその時、何も言わなかった。でも何も言わないのが彼の返事である事はちゃんと分かっていた。
「2人きりで、いっぱい思い出作ろう」
その時誠が一瞬鼻をすすって、右手で両目を軽く擦った。誠はきっと、その時少し泣いていた。
誠は、本当なら皆と一緒に行きたいんだ。 彼にはたくさんの友達がいる。誠はその仲間たちと楽しい時間を過ごしたいと思っている。 でも、きっとそれ以上に大きな不安が彼を包み込んでいるんだ。
「俺はお前といつも一緒にいたいんだ。だからお前を行かせたくないんだよ」
誠はまだ俺に背を向けて目を擦り続けていた。でも俺が一方的に喋り続けていると、そのうちやっと体をくねらせて 俺の方へ顔を向けてくれた。
その時、湿った風に髪を揺らす誠が一瞬微笑んだような気がした。彼の目はほんの少しだけ赤かった。
「ふぅん。拓也はそんなに俺と一緒にいたいの?」
「え?」
「今そう言ったくせに」
フフッと笑う誠の声が、すぐそばで聞こえた。
俺はちょっと嬉しかった。彼がだんだんいつもの調子を取り戻してきたからだ。
「いいよ。そんなに言うなら、修学旅行は行かない。その間ずっと拓也と一緒にいてあげるよ」
誠はやっぱりたしかに微笑んでいた。彼の小さな口は滑らかに動き、一重の目は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「なんだよ、今まで泣いてたくせに」
俺はその言葉をぐっと呑み込み、彼をぎゅっと抱きしめた。誠はふっくらした頬を桃色に染めて俺の胸に寄りそった。
もう目覚まし時計の音は気にならなかった。俺の耳には誠の心臓の音が大きく響いていた。
俺は安心しきっている彼をじっと見つめ、伸ばしかけの茶色い髪を何度もなでてやった。 すると彼は気持ち良さそうにゆっくりと目を閉じた。
これから彼と過ごす長い時間は、きっと俺たちにとってかけがえのない宝物になるはずだ。

 「いい事教えてあげようか?」
目を閉じて俺に寄りそう彼が、囁くようにそう言った。俺はすぐにその 『いい事』 が知りたくて、彼の髪をなでながら次の言葉をじっと待っていた。
「俺も……拓也と離れるのが嫌だから行きたくなかったんだ」
それは、彼が俺に言った2つ目の嘘だった。
でもこんなにかわいい嘘なら許してやれる。それに、その言葉の半分は本当だと信じたい。
END

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