カミングアウト 前編
 もうすぐ夏休みが終わる。俺はもう日焼けして肌が真っ黒になっていた。
今日はあまりにも暑いので、俺と誠は近所の川へ水遊びをしにきた。
海へ向かうバスの中は混雑しているし、プールには小さい子供が溢れているので、2人きりで水遊びをするには川へ行くのが1番いいという結論に達したからだ。
頭の上には午後の太陽がしっかりと居座っていた。そして太陽の日差しが反射して川の水がキラキラと光っていた。
誠はジャージの裾をたくし上げて膝のあたりまで川の水に浸かっていた。俺も負けじとジーンズの裾をまくってズカズカと水の中へ入っていった。
「水が冷たくて気持ちいい」
「あぁ、生き返るな」
俺たちは向かい合ってそんな言葉を交わしながら2人同時に額の汗を手で拭った。 外の空気はあまりにも温くて、足元は冷たくても顔からは汗が噴き出していたからだ。
温風ストーブから出たような風が吹くと、川の淵に生えている背の高い雑草が斜めになって揺れていた。 そして彼には大きすぎる誠のTシャツが同じ風を受けて大きく膨らんでいた。
「誠、今日俺の家に泊まれよ。朝までずっと一緒にいよう」
俺が今日彼に向けてこのセリフを言うのは5回目だった。でも誠はそのたびに俯いて小さく2〜3度首を振るだけだった。
俺は別に彼を困らせたくてこんな事を言っているわけではなかった。 本当に、ただ純粋に誠と一緒に朝を迎えたくて何度も何度もそう言ったのだった。

 誠は少し腰をかがめて両手で川の水をすくった。
彼はその水でサッと顔を洗い、Tシャツの裾で顔の水を拭き取った。
誠が唇を噛んで困った顔を見せると、俺はそれ以上何も言えなくなった。
彼が俺の誘いに乗らない理由はもちろんちゃんと分かっていた。誠はオネショの癖がある事を俺に知られたくないだけなんだ。
今まで俺は彼がどうしてもオネショの事を隠したいのならその意思を尊重したいと思っていた。 でも誠の事をどんどん好きになっていくと、一晩中彼と触れ合っていたいという思いが強くなっていった。
俺は彼がオネショをしても一向に構わないのに。
彼がどんなふうでも、誠が朝までそばにいてくれたらそれだけですごく幸せなのに。
俺のそんな思いは、日に日に大きくなっていった。

 川に入って向き合う俺たちの間に気まずい沈黙が流れた。
辺りには川の流れるサラサラという音だけが小さく響いていた。
誠はずっと俯いて川に反射する太陽の光に目を細めていた。 俺はこの時、誠がどうしたら自分に秘密を打ち明けてくれるかを深く考えていた。
誠だって俺に隠し事をしているのは苦しいに違いなかった。 俺はなんとか彼を楽にしてあげたかったし、何も心配せず朝まで一緒にいようと言ってやりたかった。
川べりにはサイクリングロードが長く続いていて、時々人を乗せた自転車がその道を走り抜けていった。
気まずい沈黙が流れている間、俺は必死で誠を楽にする方法を考え続けた。そして、やっと1つの答えに辿り着いた。
まず俺自身が心を裸にしてすべてを彼にさらけ出せば、誠も安心して心の扉を開いてくれるのではないだろうか…
そう考えた俺は、一世一代の大嘘をつく事にした。

 空を見上げると真っ白な入道雲が目に入った。それから太陽を見つめると、すぐに目が幻惑されてしまった。
視線を目の前に立つ誠へ向けると、徐々に幻惑が解消されてはっきりと彼の顔が見えるようになった。
誠はまだ俯いてぼんやりと川の流れを見つめているようだった。
「なぁ誠、俺の事好き?」
俺が沈黙を破ると彼はやっと顔を上げてくれた。そして長く伸びた前髪を素早くかき上げた。
元々色白な誠は夏でもほとんど日に焼けるような事がなかった。でも彼のふっくらした頬は少しだけ桃色に染まっていた。
「うん。好き」
「俺も誠の事すごく好きだよ」
彼の頬を軽くつねってそう言うと、誠は白い歯を見せてにっこり微笑んだ。
緩やかに流れ行く川の水が体を少しずつ冷やし始め、俺たちの顔からやっと汗が引いていた。
「じゃあ……これから誠に俺の秘密を打ち明けるけど、絶対誰にも言わないって約束してくれる?」
「うん」
「俺隠し事したくないし、ちょっと恥ずかしいけど誠の事信じてるから、お前にちゃんと話すよ」
「うん」
誠の一重の目はじっと俺を見つめていた。
彼に嘘をつくのは少し気が引けたけど、俺に迷いはなかった。そして俺は彼に嘘の告白をした。
「俺さぁ、少し前まで毎日オネショしてたんだ」
「え?」
誠は俺の突然の告白にかなり驚いたようだった。彼は目を見開き、口を半開きにして本当にびっくりした表情を見せていた。
「でも誠と会った頃はもうしてなかったよ」
「……それ、本当なの?」
「うん。でも、誰にも内緒だぞ」
俺が小声でそう言うと、彼は桃色の頬を隠すように両手で覆い、それから大きくうなずいた。
その後またしばらく俺たちの間に沈黙が流れた。
温い風が止むと、川の流れが更に緩やかなものへと変化した。
右足で川の水を蹴ると、バシャッという音がやけに大きく耳に響いた。

 「今度は誠の番だぞ。俺はお前に大事な秘密を打ち明けたんだから、お前も何かカミングアウトしろよ」
誠は俺を上目遣いに見つめた後、少し下がってきたジャージの裾をもう一度両手でたくし上げた。
彼はその動作をわざとゆっくりやっているように見えた。
誠はその間にどんな言葉で秘密を打ち明けようかと考えているに違いなかった。
俺はもう一度空に浮かぶ真夏の太陽を見上げた。するとまたすぐに目が幻惑されてしまった。
あと数時間経ったら太陽は姿を消し、空には月が浮かぶだろう。
誠がオネショの秘密を打ち明けてくれたら、今夜はきっと2人でベッドの上から月を見上げる事ができる。
俺は一晩中彼とメチャクチャに愛し合いたかった。
今夜はどうしても誠を抱きしめて布団に入りたかった。

 「ねぇ拓也、俺と初めて会った日の事覚えてる?」
突然そう言われ、幻惑された目をそのまま真っ直ぐ誠へ向けた。
少しずつ幻惑が解消されると、頬を桃色に染めた誠が緊張の面持ちで話し始めた事が分かった。
「もちろん覚えてるよ」
俺はこの時頭の中に彼と出会った時の事を思い浮かべていた。
去年の夏のある日、誠は俺の住むマンションの前に困った顔をしてぼんやりと突っ立っていた。
俺がちょうど学校から帰ってきた時だったから、あれは夕方4時ぐらいの事だっただろうか。
彼の背後には白い花が咲き乱れていた。あの日は緩やかな夏の風が吹いていた。
誠は首周りの大きすぎるTシャツを着て、真新しいスニーカーをはいていた。
俺は誠と目が合った瞬間に彼の事を好きになっていた。
「……どうしたの?」
俺は困った顔をしている誠にできるだけ冷静に話しかけた。
何とか彼と親しくなりたいという気持ちはすごく大きかったけど、そんな様子は微塵も見せずにそう言った。 すると誠は女の子みたいに高い声ですぐに返事をしてくれた。
「さっきマンガの本を買ったばかりなのに、どこかでなくしちゃったんだ。 本屋に行った後ここで友達とバッタリ会って、立ち話をした時にこのへんに置き忘れたと思うんだけど、どこを探しても見つからなくて……」
誠はすごく悲しそうな目をして俺にそう訴えた。今にも泣き出しそうな潤んだ目とふっくらした頬がとてもかわいらしかった。
その後誠がなくしたマンガの本のタイトルを聞いた時は、空から幸運が降ってきたのだと思った。 俺は週に一度発売されるその本を毎週欠かさず買っていたんだ。
その事を彼に伝えると、俺はまんまと誠を家へ連れ込む事に成功した。
「俺その本持ってるから、君にあげるよ」
俺がそう言った時の誠の顔は今でも忘れる事ができない。
目を輝かせ、頬を赤らめてにっこり微笑む彼に俺は一発で惚れてしまったのだから。

 「俺、あの時拓也に嘘ついたんだ」
誠にそう言われ、俺はハッと我に返った。
彼はTシャツの裾を両手でぎゅっと握り締め、真剣な目で真っ直ぐに俺を見つめていた。
それは思ってもみない告白だった。 俺は誠が何を言い出すのか見当がつかず、少しドキドキしながらその話に耳を傾けていた。
「俺、マンガの本なんて買ってなかった。 ただ前の日に拓也があの本を買ってるのを見てあんな嘘ついたんだ。 あの日は最初から拓也を待ちぶせしてたんだよ。 拓也は優しそうだから、あんなふうに嘘をつけばきっと本を貸してくれると思ったんだ。俺、本当は何日も前から拓也の事を見てた。 俺は何でもいいから拓也と話すきっかけがほしかったんだよ」
誠の声はだんだん小さくなり、最後の方は川の流れる音にかき消されてしまいそうだった。
彼はもう一度桃色に染まった頬を両手で覆い隠し、か細い声で一言付け加えた。
「嘘ついてごめんね」
真夏の太陽の日差しが川の水に反射し、その光が誠の手に反射した。
久しぶりに温い風が吹いて誠のTシャツが大きく膨らんだ。俺の真似をして茶色に染めた髪は、その風を受けてユラユラと揺れていた。
俺はすぐに誠の細い肩を抱き寄せた。
彼があまりにも愛しくて、どうしてもそうせざるを得なかった。
俺は誠のすべてを愛していた。彼の嘘も、彼の秘密も、すべてを含めて誠を愛していた。
彼の告白は俺が望んだものとは少し違っていたけど、その言葉は俺をすごく幸せにしてくれた。
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