もう雨音は聞こえない
 今日は朝から誠が遊びに来た。俺は朝から晩まで彼と一緒にいられる日曜日が大好きだった。
誠は俺の部屋へ入ると、いつものようにベッドに飛び乗って窓を開けた。
今日は空が曇っていて、午後から雨が降る予報が出ていた。
夏休みが終わってからは、雨の日が多くなっていた。窓の外から強い風が入ってきて、誠のTシャツが揺れていた。

 俺はベッドでうつ伏せになり、家のポストに入っていたチラシを何気なく眺めていた。
最初の1枚は駅前にできたパン屋のチラシで、それには食パンの割引券が付いていた。そして2枚目のチラシには、今度売り出されるマンションの間取りが印刷されていた。
「何見てるの?」
誠は俺の隣に寝転んで、2枚目のチラシを覗き込んだ。
すると彼は、楽しい妄想を始めた。3LDKのマンションの間取りを見て、そこに2人で暮らす事を考え始めたんだ。
そのマンションはリビングが18畳もあって、ベランダを出るとウッドデッキになっているようだった。
隣の寝室には大きな窓があり、その部屋は日当たり良好に思えた。他にも廊下の両側に2つの部屋があって、バスルームは広めに設計されていた。
「廊下の右側の6畳が俺の部屋。拓也には8畳の部屋をあげるよ」
誠はチラシの上の部屋を指さして、声を弾ませた。でも俺は、彼の提案に不満を持った。
「俺は誠と同じ部屋がいい」
「もちろん寝室は一緒。でも喧嘩した時のために、自分の部屋はあった方がいいよ」
「俺と喧嘩するつもりなのか?」
「きっと喧嘩も楽しいよ。仲直りした時は、すごく嬉しくなるから」
「どうやって仲直りする?」
「こうやってするんだよ」
誠が不意にキスをしてくれた。それは唇が少し触れるだけの、ほんの短いキスだった。
自分からキスをしてきたくせに、彼の頬は桃色に染まっていた。同じようにキスのお返しをしたら、はにかむように笑ってくれた。

*   *   *

 2人で住むマンションで、誠と喧嘩するのを想像した。
夕日に照らされるリビングで、俺たちは口論になる。その理由はきっと、些細な事に違いない。
例えばこんなふうだ。誠は涙を堪えながら、俺に言う。
「拓也、さっき別な子を見てたよね?」
「見てないよ」
「嘘だ。絶対見てたもん」
「見てないって」
勝手な誤解だというのに、誠はとうとう泣き出して、自分の部屋へ籠ってしまう。
無実の罪で責められた俺は、どうにも納得できず腹を立ててしまうだろう。
そんな時は、ウッドデッキへ出て外の風を浴びながら頭を冷やすんだ。
夕焼け空がとても綺麗で、誠と一緒に空を眺めたいと俺は思う。でもすぐに仲直りをするのは癪に障るから、しばらくそこから動かない。
それでもそんな時は、長くは続かない。やっぱり誠が恋しくなって、6畳の部屋へ向かってしまうんだ。
リビングに戻り、廊下を歩いて誠の部屋へ近付くと、徐々に泣き声が大きく聞こえるようになってくる。
あまり長い間彼を泣かせておくわけにはいかない。
そう思ってそっとドアを開けると、真っ暗な部屋の片隅に座り込む誠の姿が見えた。
彼は大泣きしていて、Tシャツの袖で必死に涙を拭っている。
それは想像するだけで胸が苦しくなるような光景だった。
部屋の隅で小さくなっている彼を見て、何もしていないはずの俺に罪悪感が襲い掛かってくる。
俺は慌てて彼に寄り添い、黙って肩を抱いてやるんだ。
誠の肩は震えていて、ますます胸が苦しくなる。でも仲直りする方法は、誠が今教えてくれた。
細い体を抱きしめて、短いキスをするだけでいい。そうすれば、彼はすぐに機嫌を直してくれるはずだ。

 「拓也、何考えてるの?」
誠にそう言われて、ハッと我に返った。彼は不思議そうな顔をして、妄想にふける俺を見つめていた。
窓の外には灰色の雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。本格的に雨雲が近付いて、朝だというのに部屋の中は薄暗かった。
「泣くなよ、誠」
すぐには妄想から抜け出せず、そう言って彼の頭を撫でた。誠は少し怪訝な表情を見せたけど、やがて気を取り直して嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、さっきの続き。リビングのソファーは何色がいい?」
「赤は?」
「いいね。ウッドデッキには白い椅子を置こうよ。そこに座って拓也と空を眺めるんだ」
誠は笑顔を崩さずにそう言った。彼も俺と同じ事を考えている。それが分かると、俺もすごく嬉しくなった。
でもウッドデッキには、もう1つ必要な物がある。それは布団を干すための、頑丈な物干し竿だ。
誠は時々オネショをするだろう。そんな朝は、すぐに濡れた布団を干さなければならない。
それはいいとして、問題は誠の方だ。
オネショをした時、彼はどんな様子になるだろう。
黙って寝室を出て行って、自分の部屋に籠るだろうか。それともすぐに泣いてしまい、そこから動けなくなるのだろうか。
それはどっちでも構わない。
俺は布団を干した後、急いで誠の所へ戻って、彼を優しく抱きしめるだろう。
でもその前に、ウッドデッキはカーテンで覆ってしまった方がいい。オネショした布団が見えないように、必ずそうする事にしよう。

 「ねぇ、さっきから何考えてるの?」
再びそう言われて、ハッと我に返った。
気が付くと、窓に雨粒の跡が付いていた。空から細い雨が降り出して、雨音が小さく部屋の中に響いていた。
ぼんやりしている俺の様子を見て、誠は不機嫌になりかけていた。
「俺の話、ちゃんと聞いてる?」
誠の一重の目が吊り上がり、小さな口は尖っていた。そしてその口調は、かなり刺々しかった。
「ごめん。何?」
「もういい!」
短い言葉を吐き捨て、勢いよくベッドを飛び降りて、誠が部屋を出て行こうとする。
俺は慌てて彼を追いかけ、細い腕をつかんだ。
「待って。謝るよ。ごめん」
「嫌だ! 許さない!」
彼は体を翻して俺の腕を振り払おうとした。茶色に染まった髪が乱れ、誠の息が荒くなる。
「離してよ!」
離すもんか。心の中でそう言って、強引に彼を抱き寄せた。
それでも誠は抵抗を続け、なんとかして自分の身から俺を引き離そうとがんばっている。
すぐに短いキスをして、彼の機嫌を直したい。そう思ったのに、誠は顔を背けてキスを拒んだ。
そんな事は初めてで、俺はすごく戸惑った。
こんなに側にいるのに、誠が遠く感じた。彼が本当に離れていってしまいそうで、とても悲しかった。
俺は誠の頭を両手でつかみ、力ずくでこっちを向かせた。少し乱暴なやり方なのは分かっていたけど、それでも強引にこっちを向かせた。
もう短いキスでは我慢ができなかった。誠の小さな口に強引に舌を入れると、彼も舌を絡ませてきた。
誠の体が一瞬震えて、徐々に力が抜けていくのを感じる。その時彼は、ようやく俺を許してくれたんだ。
喧嘩の後に熱いキスを交わすと、体中がとろけそうになった。
もう雨音は聞こえない。空の色なんかとっくに忘れた。
今聞こえるのは、キスの合間の息遣いと、高鳴る心臓の音だけだ。
誠は俺の首に手を回して、積極的にキスを求めた。普段の彼からは想像できないほど、大胆に俺を欲していた。
2人で一緒に暮らすようになったら、何かとぶつかる事もあるだろう。でもこんなふうに仲直りができるなら、喧嘩もそれほど悪くはない。
誠の温もりが手の中にある。今はそれだけで幸せだ。
喧嘩と仲直りを繰り返して、いっぱい幸せを感じて、誠と2人で生きていく。彼と唇を重ねながら、そんな未来を夢見た。

 やがて2人の唇が離れ、仲直りのキスは終わりを告げた。
窓から強い風が入ってきて、ベッドの上のチラシが床に吹き飛ばされた。誠の茶色の髪も、同じ風に揺れていた。
「ごめんな」
もっといろいろ言いたい事があったのに、胸がいっぱいでうまく言葉が続かなかった。
誠の頬は桃色に染まっていた。彼は急いで髪を整えながら、にっこりとほほ笑んだ。
「仲直りできて嬉しかった?」
俺はその時、頷くのが精一杯だった。誠がやっと笑ってくれて、すごくほっとしていた。
「でも、ちょっと早すぎるよ。拓也と喧嘩したら6畳の部屋に逃げ込むつもりだったのに、その前に仲直りしちゃった」
どうやら誠も、俺と同じ喧嘩の仕方を想像していたようだ。
だけど現実はそれとは違っていた。誠に少しでもそっぽ向かれると、すごく悲しくてすぐに仲直りをしたくなった。
「3LDKは広すぎる。俺たちはワンルームでいいね」
誠はそう言って、短いキスをしてくれた。きっとそれが、本物の仲直りのキスだった。

 誠はかわいい。チラシ1枚でこんなに俺を楽しませてくれる。そんな彼が大好きで、ずっと一緒にいたいと俺は思った。
大人になったら、誠のために家を買おう。
赤いソファーも、ウッドデッキの白い椅子も、全部俺が買ってやるんだ。
でも今は、軽々しくそんな言葉を口にする事はできなかった。
俺たちはまだ無力な子供で、なんの約束もできやしない。俺はその事がとても悔しくてたまらなかった。
END

トップページ 小説目次 カミングアウト 後編